どはなかったろう、いわばこのうえもない最後だった。
猛烈な火は北風に煽られてたちまち隣りの物置に移り、食料品、野菜、猟具、人夫どもの雑多な私有品などを焼きつくしたうえ、剥皮場と看視人小屋に飛火してひと嘗めにし、獣皮塩蔵所を半焼したところで、ようやくおさまった。そのとき風が変ったのである。
狭山は乾燥室の奥まったところで酔いつぶれていた。爆発と同時に、狭山ももちろん吹き飛ばされた。しかし、このほうは火の中へ落ちずに氷の上に叩きつけられた。ちょっとしたことだが、これがたいへんな違いになった。腰を痛めただけで、命には別条がなかった。狭山自身はなんの自覚もなかった。よほどたってから、ゆっくりと眼をさました。しばらくの間、なにが起ったのか了解する事ができなかった。燃え狂う炎をぼんやりと眺めていたのである。
一、獣皮塩蔵所の建物は、崖下の雪の中に一種素朴なようすで焼け残っていた。疎らに立ち並んだ五六本の焼棒杭に氷雪がからみついて、樹氷のようにつらつらに光り、立木一本ない不毛の風景に、多少の詩趣をそえるのである。
五人の屍体は、焼け残った、申し訳ばかりの屋根の下の板壁に寄せ、塩と雪とが半々にまじりあった石のように堅い地べたに枕木のように無造作に投げだしてあった。
あわれを誘うようなものはなにも無い。どの屍体も極めて滑稽なようすで凝固していた。立膝をしているのもあり、ダンスのステップでも踏んでいるように片足をあげたのもあり、腕組みをして沈思しているようなのもある。いずれも燻製のように燻され、青銅色に薄黒く光っていた。
地面に落ちたとき、最初に雪に接した部分であろうか、どの屍体にも一ヵ所ずつ焼け残ったところがあって、そこだけが蒼白い蝋のような不気味な色をしていた。どれもこれもおし潰されたような歪んだ顔をし、海鳥に喙ばまれた傷の間から骨が白くのぞきだしている。
私は狭山の投げやりな処置に腹を立て、
「なぜ穴を掘って埋めんのか。これでは鳥の餌になってしまうじゃないか」と詰《なじ》ると、狭山は自分の腰にさげたアイヌの小刀《マキリ》を示しながら、鶴嘴はみな焼けてしまい、この小刀一梃では、どうすることもできなかったのだとこたえた。
一、小屋に帰ると、狭山は青磁に黒い斑のはいった海鴉《ロッペン》の卵を煮て喰わせ、じぶんは船から届いた大根や玉葱を生のままで貪り喰った。釣道具も、猟銃も、ひとつ残らず焼けてしまい、この二た月の間、海鴨と卵だけで命をつないでいたのだといった。
一、八時頃になると、霧の中で雪が降りだし、沖から風が唸ってきてひどい吹雪に変った。島全体を雪の塊にしてしまうような猛烈な吹雪で、風は咆え、呻き、猛り狂い、轟くような波の音がこれに和した。小屋は絶えずミシミシと鳴り、いまにも吹き飛ばされてしまうかと思うほどだった。
夜半近くなると、風はいよいよはげしくなって行ったが、天地の大叫喚の中で、なんとも形容し難い唸り声をきいた。暴風の怒号の間を縫いながら、地下の霊が悲しみ呻くようなかぼそい声が、途絶えてはつづき途切れてはまた聞こえ、糸を繰りだすように綿々と咽びつづける。得体の知れぬこの声が耳について、とうとう朝までまんじりともすることができなかった。
第二日
一、吹雪はやんでいたが、風の勢いはいっこうに衰えない。氷の上を掃きたて、岩の破片と氷屑《セラック》をいっしょくたに吹き飛ばしながら、錯乱したように吹きつづけている。この世の終りのような物凄い※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]風《ひょう》だった。
朝食後、真赤に灼けた煖炉の傍に机をすえて報告書を書き出したが、船のことばかり気にかかって捗らない。この大時化では予定した日に島を離れることなどは望めない。氷と岩のほか、なにひとつ見るものもない荒凉たる孤島で、あてもなく幾日か暮さなければならぬと思うと、漂流者のように暗澹たる気持になり、仕事をつづける気にはなれない。
一、いつの間にか仮睡をし、眼をさますと夜になっていた。水を飲もうと炊事場の水槽《タンク》のあるほうへ行きかけ、ふと狭山の寝台の下に、茶褐色の犬のようなものが蹲っているのを発見した。しゃがみこんで眺めると、二歳ほどの膃肭獣の牝で、しなやかな背中をこちらへ向け、前鰭で頭を抱えるようにして、おとなしく眠っていた。これが昨夜の唸声の主なのであった。
どうしてこんなところに膃肭獣がいるのかとたずねると、狭山は、去年の秋、皆にはぐれ、海と反対の追込場の方へはいあがってきたのを捕えて飼っておいたのだが、子供のようになついているとこたえた。寝台の下に手を入れて膃肭獣の背中を軽く叩くと、膃肭獣は眼をさまし、伸びをするようなことをしてから、ヨチヨチと寝台の下から匍いだしてきた。
しなしなと身体を撓《しな》わせ
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