にそれを蔽い隠し、姿をあらわしたときとおなじように、漠々たる乳白色のなかへ沈んでしまった。
一、ひと眼その島を見るなり、私はなんともつかぬ深い憂愁の情にとらえられた。心は重く沈み、孤独の感じがつよく胸をしめつけた。唐突な憂愁はなにによってひき起されたのだろう。陰鬱な島の風景が心を傷ませたのだと思うほかはない。さもなくば、予感といったようなものだったのかも知れない。それは悲哀と不安と絶望にみちた、とらえどころのない情緒だった。
私は舷側に凭れ、島が幻のように消え失せたあたりを眺めていたが、精神の沈滞はいよいよ深まるばかりで、なにをするのも懶《ものう》くなった。この年は、例年になく寒気がきびしかったので、海氷の成長がいちじるしく、氷原の縁辺から海岸までは四浬以上もあり、島に行くには、橇か、徒歩によるほかない。この厄介な事情が、いっそう憂鬱をつのらせた。島の査察は重大な仕事だったが、さまざまに迷ったすえ、部下の技手に事務を代行させることに肚をきめ、正午近く、米、野菜、その他、若干の食糧を積んだ橇とともに島へ出発させた。
一、部下の復命を得次第、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々、離島して、一旦、敷香まで行き、そこから陸路帰庁するつもりで、船長室の煖炉の傍に坐っていたが、まもなく帰船した部下の報告によって、この島に椿事のあったことを知り、予定した行動をとることができなくなった。
それは、今年一月四日の夜、乾燥室から火を失し、塩蔵所の一部と人夫小屋を除く以外、全部の建物が烏有《うゆう》に帰し、狭山良吉という剥皮夫が一名生き残ったほか、清水技手以下五名が焼死したという椿事である。それで、責任上、仔細に事件を調査し、その結果を上長ならびに警察部に報告すべき義務が生じたが、便乗して来た第二小樽丸は、逓信省命令航路の郵便船で、遠浅、遠内、敷香などの町に送達する郵便物を積んでいるため、調査が終るまで沖合に待たせて置くわけにはいかない。やむを得ず、敷香から電信で事件の大体を本庁に報告するように部下に命じ、帰航に島へ寄って貰う条件で、私が島に残ることにした。船は遅くも明後日の夕刻ごろ寄島することになろうから、非常な不便はなく、それまでに調査も滞りなく完了することと思った。
一、舷梯を伝って氷原に降り立つと、汽船は咽ぶような汽笛を長鳴させながら、朦朧たる海霧の中に船体を没し、私は重苦しい霧にとざされた、広漠たる氷原の上にただひとり残された。灰色の無限の空間は、なにひとつ物音もなく、しんとした静寂に充たされ、氷原は波のうねりがそのまま凍りついて、死滅した月の表面のような冷涼たる趣きを呈し、十尋の底まで透けるかと思われるほど透明で、ぞっとするような物凄い緑色をしていた。
私は孤独の感じと闘いながら、漂うように島のほうへ歩きだした。寒気は非常にきびしく、靴はたちまち石のように凍ってしまい、鋭い錐氷に爪先を打ちつけると、飛びあがるほど痛かった。普通の歩き方では一歩も歩まれない。氷の畝から畝へ、飛ぶようにして行くほかはない。爪先を極度に緊張させるので、ふくらはぎが痛み出し、長く歩行をつづけることができなかった。
幾度か転倒しながら進んで行くうちに、また霧が動いて、島の全景が唐突に眼の前に立ちあらわれた。
雲に蔽われた黒い岩山が、断崖をなして陰気に海岸のほうへ垂れさがり、その周りを、雪煙と灰色の霧が陰暗と匍いまわっている。岩と氷と雪がいっしょくたに凍てついてしまった地獄の島。その永劫の静寂の中で、海鴉が断崖の端でゆるい輪をかいている。
一、海岸に面した氷の斜面に足場を刻みながら、一歩一歩上って行くと、中腹の岩蔭に、人夫小屋が頑固な牡蠣殻のようにしがみついていた。入口に雪|囲《がこい》をつけた勘察加《カムチャッカ》風の横長の木造小屋で、雪のうえに煙突と入口の一部だけをあらわし、沈没に瀕した難破船のような憐れなようすをしていた。
入口の土間は、十畳ほどの広さで、薄暗い片隅に、人夫達の合羽や、さまざまな木箱と樽、ペンキの剥げたオールや短艇《ボート》のクラッチなどがごたごたとおいてあった。扉を叩きながら声をかけて見たが、ひっそりとしずまりかえって、返事がないので、形ばかりの押扉を押して部屋に入ってみた。
そこは奥行の深い※[#「木+垂」、第3水準1−85−77]木《たるき》がむきだしになった、がらんとした粗末な部屋で、半ば以上窓が雪に埋まっているので薄暗く、もののかたちが朧気によろめいている。左右の板壁によせて、二段になった蚕棚式の木の寝台が八つほど造り附けになり、はるか奥の突当りに裏口の扉が見える。その右手が炊事場になっているようなので、行って覗きこんでみたが、炊事道具や罐詰の空罐などが乱雑に投げだしてあるばかりで、そこにも人の姿はなかっ
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