島の誰かが馴染みの娼婦からでも貰って来たのかも知れず、柱暦の日附も、昨年のものだとする理由はどこにもない。一昨年のかも一昨々年のかも知れなかった。
 私は安堵と疲労と同時に感じ、この島へ来て以来、はじめて熟睡した。どのくらい眠ったか知らないが、騒がしい音で眠りからさまされた。狭山が悲痛な声で膃肭獣の名を呼びながらあわただしく走りまわっている。膃肭獣がまた病気になったのだ。
 とるにも足らぬ妄想の閾に立って狭山をながめ、勝手に嫌悪したり怖れたりしていたが、ひとりよがりの独断をふり落してしまうと、狭山にたいする不快の念は拭い去ったようになり、この孤島に自分とこの男と二人っきりしかいないのだという、親愛の情のようなものさえ感じるようになった。この数日の友だった男の悲嘆を見過して置けず、自分に出来ることなら応分の手助けをしようと思い、上衣をひっかけて狭山のいるほうへ行った。
 薄暗いランプの下に膃肭獣が長くなり、背筋を波うたせるように痙攣させながら、嘔吐をするようなそぶりをする。毛並みの艶がなくなり、髯は垂れさがり、素人の眼にさえ覚束なそうに見える。
 狭山は私が傍に立っているのさえ眼にはいらないようすで、赧黒い頬にとめどもなく涙をつたわらせながら、
「すぐおさまる」とか、「元気を出したり」とか、涙にくぐもった声で呼びかけ、口を割って水を飲ませ、掌を煖炉で温めては一心に膃肭獣の背をさすっている。膃肭獣は苦しそうに呻きながら、首をあげて狭山の顔を見あげ、前鰭を狭山の腕に絡ませて悲しげな愛想をする。すると、狭山はさする手をやめ、大きな声で泣きだしてしまうのだった。間歇的に劇痛がくるらしく、そうしているうちにも、弓のように背筋を反らせて爪先から頭の先まで顫わせ、そのたびに見る見る弱っていく。狭山はどうしようも才覚つかなくなったふうで、腕の中に膃肭獣を抱え、子供でもあやすようにただわけもなく揺りつづけるのだった。吹雪と北風の音にとざされた荒凉たる絶海の孤島で、膃肭獣だけを友にして生活していた狭山にとっては、この期の悲嘆はかくもあるのであろうか。人獣の差別を超えた純粋な精神の交流に心をうたれ、私は涙を流さんばかりだったが、追々ひく息ばかりになり、とうとうシャックリをするようになった。
 狭山は手の中のものを取られまいとする子供のように、執拗に膃肭獣を抱きしめていたが、どうせ助からぬも
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