のなら長く苦しませたくないと思ったのか、急にキッパリとした顔つきになり、腰の木鞘から魚剖刀《マキリ》を抜きだすと、鋭い切尖を膃肭獣の頸のあたりに突き刺した。直視するに耐えず、眼をそらそうとしたとき、狭山はマキリを投げ捨て、創口に両手をかけ、貴婦人の手から手袋をぬがせるようにクルリと皮をひき剥いた。
 一転瞬の変化だった。ちょうど幻影が消えうせるように膃肭獣の姿が消え、たったいま膃肭獣がいたその場所に、白い若い女の肉体が横たわっていた。すんなりと両手をのばし、うっすらと眼をとじている。その面ざしの美しさは思いうかべられる限りのいかなる形象よりもたちまさっていた。膚はいま降った淡雪のように白くほのかに、生れたばかりのように弱々しかった。美しい肢体はたえず陽炎のように揺れ、手を触れたらそのまま消えてしまいそうだった。狭山は床に跪まずいて合掌し、恍惚たる眼差でまたたきもせずに凝視していた。
 霧の間から朝日の光が洩れ、八日目の朝が来た。狭山は蚕棚の端に腰をかけ、首をたれて悲嘆に沈んでいたが、静かに立ってきて向きあう床几に掛けると、こんな話をした。

    Agrapha(陳述されざりし部分)

 それは荒木の姪で山中はなともうしました。としは十八で、こころもちのいいそのくせちょっとひょうきんなところもあるむすめでした。十一がつのなかごろの定期でおじをたずねて敷香からこの島へやってまいりました。もちろんこの島で越年するつもりなどはなく、すぐつぎの船でかえるはずだったのですが、時化でさいごの定期がこず、いやおうなしに島にとまることになったのであります。たとえてもうしますなら、この岩ばかりの島にとつぜんうつくしい花がさきだしたようなものでありました。荒木はともかく、わしどもにはただもうまぶしくてうかつにそばへもよってゆけぬようなありさまだったのであります。花子はさっぱりしたわけへだてをしないむすめでありまして、たれにもおなじようにからみついたりじょうだんをいったり、そればかりか手まめにシャツのほころびをぬってくれたり、髪をかきあげたりしてくれまする。鬼のような島のやつらも、たれもかれもみな見ちがえるように奇麗になって、たがいに顔をみあわせてはあっ気にとられるのでありました。らんぼうばかりいたして手のつけられぬいんだら[#「いんだら」に傍点]なやつらも、花子のまえへでると小犬のよ
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