、呪咀にみちた、この島の忌わしい形象《フィジイク》が私の官能に作用し、意識の深いところで逃れられぬ不幸な運命を感じていたのだった。
 私は恐怖の念にかきたてられ、窓のそばへ走って行って、薄光りする窓ガラスに顔をうつして見た。
 雪花をつけて凍《し》みあがったガラスの面に浮かびあがったのは、まさしく膃肭獣の顔であった。顱頂は平らべったくなり、鼻は顔に溶けこみ、耳はこめかみに貼りつき、唇は耳のほうまで不気味にひきつれている。
「やられた」
 私は絶望して土間に坐りこみ、妻や、子供や、親しい友人の名をかわるがわるに呼びながら、声をあげて泣きだした。不思議にも、私の舌は上顎の裏に貼りついたようになり、なにか喋言ろうと焦れば焦るほど、あさましい咆哮になってしまうのだった。
 泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったのだと見える。眼をさますと、もう夕方近くになっていた。
 悲しい夢を見ていた。私は月の渚で、美しい一匹の牝と無心に戯れていた。銀の縁《ふち》取りをした黒檀色の波がたえず足もとに寄せてはかえし、湿った海風に海草や馴鹿苔の匂いがほのかにまじっていて、快く睡気をさそった。広い渚に何万とも知れぬ膃肭獣が匍ったり蠢めいたりし、濡れた身体に月の光が反射して発光虫のように燐色に光る。それが交錯して、蒼白い陽炎がゆらめくように見えるのだった。美しい肢態をもった私の愛人は、前鰭でやさしく私を抱えたり、私の胸にすべっこい丸い顔を凭せかけたりした。私は砂浜にはねあげられた銀色の魚を喰べて充ちたりた気持になり、膃肭獣の言葉でながながとしゃべった。
 煖炉の火はすっかり消え落ち、部屋の中は薄暗くなっていた。私は起きあがって蝋燭に火をともし、本箱の端に腰をかけて腕組をした。適度の睡気と冷気は過敏な神経をほどよく鎮静してくれ、冷理にかえるにつれて、輪廻説の影響による転生だの転身だのということは、みなとるにも足らぬ妄説にすぎないと考えるようになった。
 背嚢から小さな手鏡を出し、蝋燭の灯に近づけて顔をうつして見たが、そこにうつしだされたのは、熱にうかされたような、秀麗とはいいがたい平凡極まるいつもの顔で、昼すぎ、硝子窓にうつったゾッとするような異様な顔は、出来の悪いガラスの歪《ひずみ》や気泡の悪戯なのであった。
 なんとしても馬鹿げた話だから、娘のことはもう考えないことにきめたが、そのとき、ふとした
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