蔭にアーエートの墓が蕭条たるようすで半ば氷に埋もれていた。墓銘は露西亜語でこんなふうに書かれてあった。
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(動物学者ニコライ・アーエートの墓。学術調査中、この島にて死す。一九一六年三月×日)
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ニコライ・アーエートの死の因由は今日もなお不明である。アーエートは西側の海岸の岩隙《チムニイ》の壁に凭れ、眼をあいたまま死んでいた。左手にパイプを持ち、右手は外套のポケットにさしこまれたままであった。なにか神秘な力が突然に襲いかかり、島の研究を中絶させたと思うほかはないような死にかただった。
思いついて私はそのほうへ歩きだした。煙突を縦に切ったような割目が岩壁に深く喰いこみ、その奥はやや広い洞になっているので、小さな小屋ぐらいなら、外部から見あらわされることなく隠しおわせられるはずだと思ったからである。
岩角に手をかけて降りて行って見ると、夏になれば、ししうばや、岩菊や、薄赤い雪罌粟などのわずかばかりの亜寒帯植物が、つつましい花を咲かせる優しげな岩隙も、いまはいちめんに氷と雪にとざされ、長い氷柱がいくつも鐘乳石のように垂れさがって洞の入口をふさいでいた。心をときめかしながら氷柱の隙間からその奥へ入って行くと、洞穴はあっけなく四五間で行きどまりになり、羊歯や馴鹿《となかい》苔が岩の腹に喰いついているのが認められるだけで、人が住んでいるようなしるしは、なにひとつ見あたらなかった。
洞の中はうす暗く、おどんだような闇の中から、いまにもアーエートの亡霊が朦朧とよろめきだしてくるような気がする。洞穴のなかほどのところに立って、仔細らしくそこここと透かしていたが、ふとアーエートが死んだのは、五年前の今日ではなかったかというような気がし、恐怖に襲われて入口のほうへ走りだすと、岩の割目に手をかけて狂気のように断崖をよじのぼった。
私は崖の端に腰をおろし、額から滴たりおちる冷汗をぬぐいながら息をはずませていた。見おろすと、塩蔵所の焼棒杭が弱々しい冬の陽に染まりながら寂然たる氷の渚に不吉なようすで林立している。丘の下には焼け焦げた五つの屍体……洞穴の薄明の中には横死をとげた不幸な魂……巻煙草を出して火をつけ、能うかぎりの悠長さで煙をふきながら、得体の知れぬ妄想をはらいのけようとつとめたが、この島にたいする嫌悪の念はいよいよ深まりゆくばかりで
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