ると、屈折につれて天鵞絨のような毛のうえを素早く美しい光沢が走る。胸は思春期の少女のように嬌めかしい豊かな線を描き、手足のみずかきは春の霞のように薄桃色に透けていた。眼はおっとりと柔和に見ひらかれ、どんな動物のそれよりもやさし気だった。
 狭山は可愛くてたまらぬというように、※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]めまわす眼つきで惚れぼれと眺めていたが、異相の大男のどこからこんな声が出るかと思われるような甘ったるい声で、
「花子や、旦那にお辞儀しねえか」といった。膃肭獣はきょとんと狭山の顔を眺めていたが、その意味がわかったのだとみえ、いくども首をあげさげして、お辞儀をするような真似をした。狭山は首を振ったり、クックッと笑ったりしていたが、膃肭獣との愛情を誇示したくなったらしくいろいろな掛声をかけると、膃肭獣は遠いところを眺めるような眼つきをしながら、狭山の肩に凭れかかったり、膝のうえに這いあがったりした。恍《とぼ》けた、愛らしいともいうべきしぐさであるにもかかわらず、なぜか、それが私の心をうった。妙に心に残る情景だった。

    第三日

 一、風は依然として吹きつづけ、来るべき船は来ずに夜になった。
 正午ごろから、膃肭獣はしょんぼりと首を垂れ、元気のないようすをしていたが、夕方近くになると、床の上に腹這いになって、苦しそうに呻きだした。狭山の悲嘆と狼狽ぶりはめざましいばかりで、ありったけの毛布と襤褸で膃肭獣を包み、人間にでもものをいうようにやさしい言葉をかけながら、錯乱したように膃肭獣の背中をさすりつづけていたが、膃肭獣はだんだんに弱って唸声もあげないようになり、呼吸をするたびに背筋が大きく波うち、切なさそうに手足の鰭で床を打った。
 狭山は紫がかった赤い頬に涙を伝わらせ、膃肭獣がするように両手で胸を打って、しゃくりあげて泣いていたが、自由に曲がらぬ足をうしろに突きだし、両手を使って物狂わしく膃肭獣のまわりを匍いだした。しばらくの間、うそうそとよろめきまわっていたが、膃肭獣を腕の中に抱えこむと、突然、甲高い声で笑った。眼は狂暴な色を帯びて異様に輝き、首は発揚性昂奮ではげしく前後左右に揺れている。氷と岩で畳まれた孤島の一軒しかない小屋の中に、私は躁暴狂になりかけている巨人のような男と二人きりでいる。私の境遇はすこぶる危険なものになってきた。
 小屋の外
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