が」
 よろめきまわるはずみにどこかへ打ちつけたとみえて、右の膝小僧のところへ擦傷《すりきず》が出来、そこからトロリと血をしたたらしている。それからすこしあがったあたりと右の脇腹のところに甚松の身体にあったような文久銭ほどの赤痣が罌粟《けし》の花のように赤くクッキリと残っている。
 アコ長はいつになく戸惑ったような顔で、
「こいつは大しくじり。たいへんな見当違いだった。……この工合ではもういちど始めからやり直さなくちゃならねえ。……それはともかく、こんなとこへ放っておけない。……清五郎、とにかく母家へ知らせて来い」
 蒼くなって顫えている清五郎の尻をたたくようにして母家へ追いたててやってから四人で数負を離家へ運び入れようとしていると、母家へつづく柴折戸を引き離すような勢いで押しあけ、バタバタと駈けて来たのは末娘のお節。
 若さの匂いが滾《こぼ》れ出すような水々しい肌に喪服の黒はよく似あう。下着の鹿《か》の子《こ》の赤い色をハラハラ裾からこぼしながら足袋はだしのまま息も絶え絶えに駈けよって来て、長い袖をハタとうちかけ、両手を掻きいだくようにして数負の胸に喰いつくと、ワッと声をあげて身も世もないように泣き沈んでしまった。
「……数負さま、数負さま。……あなたまで、あなたまで。……ああ、どうしよう、どうしよう。……あなたに万一のことがあったらあたしは生きてはおりません。……どうぞ、もういちど眼をあけて。……死んでは嫌、死んでは嫌。……岩の下ゆく水の心ばかりを通わせ、焦れ死ぬほどにお慕いしておりました。それほどの思いもとどかず、こんなすさまじい折に、思いのたけをお伝え出来ぬとは、なんという悲しいめぐりあわせ。……切ないあたしの思いもあなたの耳に聞えるのやら聞えぬのやら……」
 なりもふりもなく掻きくどくのを、アコ長はその肩へ手をかけ、
「そういうことなら悲しいのはもっともだが、そんなことをしていては手当が遅れる。それじゃ助かる命も助からない。歎くのは後にして、ともかく離家へ運んで手当をしなくては……」
 とど助と清五郎と、三人がかりでお節をひき離して数負を離家へ運びこむ。たいへんな熱で、そばへ寄るとプーンと熱の臭《にお》いがする。寒けがするのか、絶え間なくガタガタと身体を震わせ、切れぎれに、
「……畜生ッ、……き、貴様、阿波屋の六人を……、貴様が阿波屋のかたき。……そこにいろ、いま離家へ行って刀を持って来てぶった斬ってやるから。……くそッ、どんなことがあっても、それまでは死にはしないから……。おのれ、待っておれ……」
 恐ろしものがすぐそばにでもいるように、取りとめのない囈言《うわごと》をいいながら、つかみかかるような身振りをする。
「畜生ッ、……脇差を……、早く脇差を……そらそら、逃げてしまうから」
 脇差を捜そうとするのか、急にムックリと起きあがってあらぬかたへ匍い出そうとする。
 ひょろ松は顎十郎のほうへ振りかえって、
「阿古十郎さん、いったいなにを言ってるンでしょう。なにかしきりに言いたがっているが、訊きだす方法はないもんでしょうか」
「こういうひどい熱だからちょっと覚束《おぼつか》ないが、やるだけやって見よう」
 と言って、数負の耳に口を寄せ、
「新田さん、新田さん、阿波屋のかたきというのはなんのことです。ひと言でいいから言ってください。わたしたちがきっとぶった斬ってやりますから。……ねえ、たったひと言」
 数負は、こちらの言うことがまるきり耳へとどかないようすで、眦《まなじり》も張りさけるかと思うばかりにクヮッと眼を押しひらき、ただ、脇差、脇差、と言うばかり。アコ長は歎息して、
「こいつはいけねえ。ひと言いってくれさえすりゃあ、なんとか手がかりがつくのだが、……」
 そう言っているうちにも、おいおい引く息ばかりになって、どうやら覚束ないようすになってきた。
「椿庵先生、もうちょっとのあいだ、命を取りとめるように手を尽してみてください。阿波屋の怪死の秘密はこいつの口ひとつにかかっているのだから」
「よろしい、なんとか及ぶ限りやってみましょう」
 ふと気がついて見ると、今まで部屋のすみで泣き伏していたお節の姿が見えない。ひょろ松は怪訝な顔で、
「おや、いまいたお節という娘はいつ出て行きましたろう。なにかあの娘にいわくがありそうだからちょっと問いつめてやろうと思っていたんですが」
 と、言っているところへ大工の清五郎が駈けこんで来て、怯えたような低い声で、
「……妙なことがあります。お節さんが、梯子をのぼって、いま屋根裏へ入って行きました」
 アコ長は、キッとして、
「お節が、屋根裏へ?……そりゃほんとうか。見間違いじゃないだろうな」
「見間違おうたってこのいい月。決して間違いはありません。……こう、怯《お》じたように後さきを見
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