「総領の甚之助が死んだのはいつだっけな」
「……五月の二十日。……それから二十日ばかりたってから後のことです」
「……で、ありようをすっかり話したのか」
 清五郎はあわてて手を振って、
「飛んでもございません。ここに寝るとみな魘されるというが、離家の天井になにかさわりがあるんじゃなかろうかと、ま、そんなふうに、ぼんやり話しただけだったんでございます」
 顎十郎は蜘蛛の巣だらけの梁に腰をかけてうっそりと腕組みをしていたが、なにか思いきめたふうで、
「おい、清五郎、ちょっと甚松の死骸を検べて見たいから、神田へ行って大急ぎでひょろ松を呼んで来てくれ」
「へ、そうですか。よろしゅうございます、大駈けで行ってまいります」

   油壺

 雨があがって、薄雲のあいだで新月が光っている。
 油蔵の庇あわいへかがみこんだ五人。
 アコ長、とど助、ひょろ松、清五郎。それに御用医者の山崎椿庵《やまざきちんあん》。
 アコ長はチラとあたりを見まわしてから、低い声で、
「どうだ、ひょろ松、甚松の死体をなんと見た」
「大熱が出たということや、手足の節々の腫れかたなどを見るに、傷寒《しょうかん》か破傷風。……この前の四人を見ていませんからはっきりしたことも言えませんが、どうもそのへんのところかと思われます。……椿庵先生、あなたのお診断は?」
「いったんは、虎列剌《ころり》かとも思いましたが、嘔吐《はい》たものは虎列剌とはまったくちがう。胸や背に赤斑こそありますが、虎列剌の特徴になっておる形容の枯槁《ここう》もなければ痴呆面《こけづら》もしていない。それに、これが虎列剌なら阿波屋一軒ですむはずがない」
 アコ長はせっかちに遮《さえぎ》って、
「なるほど。……すると、ギリギリのところどういうことになるんです」
「手前の診断では、まず毒。……それも、なにかはなはだ珍奇な、たとえば、蘭毒のようなものでも盛られたのではないかと……。もちろん、これは手前の推察で確言いたすわけではないが」
 顎十郎は、手のひらで長い顔をべろんと撫でおろし、
「向島の花見で助けたのが新田数負。助けられたのが末娘のお節。……次々に妙な死に方をしたのは男のほうは総領から四男まで。女のほうは姉娘とおふくろ。生き残っているのは父親と居候的《いそてき》の新田と末娘のお節の三人。……ところで、数負の親父は蘭方医で和蘭の本草学にくわしいということになれば、阿波屋の事件はもう答えが出たようなもんだ。……どうだ、ひょろ松、それともお前のほうになにかかくべつの見こみでもあるのか」
「こう筋が通ったうえで、べつな思いつきなどあろうはずはありません。……いつぞやの堺屋騒動のときも、ちょうどこんなふうにうまく出来すぎていて、ついひっかかって失敗《しくじ》りましたが、こんどは大丈夫、金《かね》の脇差《わきざし》」
 会心らしくニヤリと笑って、
「過ぎたるは及ばず、ってあまりうまく段取りをつけすぎるから、けっきょく露見してしまう。悪いことというのはなりにくいものとみえます」
 ひょろ松が感懐めいたことを言っていると、黒板塀の裏木戸のほうを眺めていたとど助が、なにを見たのか、おやッと声をあげた。
「あれをごらんなさい、なにか妙な歩き方をしておる」
 四人があけはなしになった裏木戸のほうを眺めると、いま噂になっていた新田数負が、泉水の縁にそって、薄月の光に照らされながらヒョロヒョロと離家のほうへ歩いて行く。
 男にしてはすこし色が白すぎる難はあるが、いかにも聡明そうな立派な顔立ちで、黒羽二重の薄袷《うすあすわせ》を着流しにしたいいようす。
 それはいいが、歩きっぷりがすこぶる妙なので。酔歩|蹣跚《まんさん》といったぐあいに肩から先に前のめりになってヨロヨロと二三歩泳ぎだすかと思うと、とつぜん立ちどまってはげしく大息をつき、両手で胸のあたりを掻きむしるような真似をして、またヒョロヒョロと歩きだす。
「酔ってるのでしょうか」
「うむ、酔ったにしては、妙な歩きっぷりだな」
 五人が肩を重ねるようにして眺めていると、数負は急に眼でも見えなくなったように、泉水の端から離家と反対のほうの竹藪のほうへよろけて行き、トバ口の太い孟宗竹にえらい勢いで身体を打ちつけたと思うと、仰むけざまにドッと倒れてそのまま動かなくなってしまった。
「どうしたんだ、ともかく行って見よう」
 アコ長を先にして泉水の縁をまわりこんで数負のそばまで駈けて行く。かがみこんで顔を見ると、土気色になってもう命の瀬戸ぎわ。
 よほど苦しかったと見えて、顔がグイとひきゆがみ、片眼だけ大きく明けてジッと空を睨んでいる。
「おッ、これはいけねえ」
 椿庵は数負の着物の胸もとを寛げ、気ぜわしくあちらこちらと検べていたが、アコ長のほうへ顔をねじむけ、
「ごらんなさい、赤痣
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング