顎十郎捕物帳
蠑※[#「虫+原」]
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)朝風呂《あさぶろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)深川|万年町《まんねんちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)化粧※[#「木+垂」、第3水準1−85−77]《けしょうたるき》
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   朝風呂《あさぶろ》

 阿古十郎ことアコ長。もとは北町奉行所に属して江戸一の捕物の名人。ひょんなこと役所をしくじって、今はしがない駕籠舁渡世。
 昨夜、おそい客を柳橋まで送りとどけたのは九ツ半。神田まではるばる帰る気がなくなって深川|万年町《まんねんちょう》の松平|陸奥守《むつのかみ》の中間部屋へころがりこみ、その翌朝。
 朝からとの曇って、間もなくザッと来そうな空模様。怠け者のふたりのことだから、これをいい口実にして、きょうは休むことに話あいがつき、借りた手拭いを肩へひっかけて伊勢崎町の湯へ出かけて行く。
 このへんは下町でも朝が早いから、まだ七ツというのにひどく混雑する。いい声で源太節を唄うのがあると思うと、逆上《のぼせ》た声で浄瑠璃を唸るやつもある。
 ほかの町内の風呂というのはなんとなく気ぶっせいなもので、無駄口をたたきあう知った顔もないから、濡手拭いを頭へのせてだんまりで湯につかっていると、ふと、こんなモソモソ話が聞えてきた。柘榴口《ざくろぐち》の中は薄暗いから顔は見えないが、どちらも年配らしい落着いた声。
「お聴きになりましたか、阿波屋の……」
「いま聴いてゾッとしているところです。……じっさい、ひとごとながら、こうなるといささか怯気《おじけ》がつきます」
「朝っぱらから縁起でもねえ、どうにも嫌な気持で……」
「いや、まったく。……そりゃそうと、これでいくつ目です」
「六つ目。……阿波屋の葬式といったらこの深川でも知らぬものはない。今年の五月に総領の甚之助が死んで、その翌月に三男の甚三郎。七月には配偶《つれあ》いのお加代。八月には姉娘のお藤と次男の甚次郎。……しばらく間があいたからそれですむのかと思っていると、こんどは四男の甚松が急にいけなくなって、きょうの払暁《ひきあけ》に息をひきとったというンです。……どういうのか知らねえが
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