りでそっとお源の銀の平打ちを引きぬいておいたんです」
「怪しからんやつだの」
「……次の日になって簪の紋を調べて見ると、府中小町なんていわれるお源のものだということがわかったから、桜場はすっかり悦に入ってしまった。かねてお源にはぞっこんまいっていて附け文の二、三度もしたことがあるンだから、てっきり文の返事を手っとり早いところでやってくれたンだと早合点して、自分じゃもうお源の婿になったつもりでおさまり返っていた。……ちょうどそのころ、桜場はよんどころない用事で江戸へ出かけなければならないことになり、一年ばかりしてから府中へ帰ってみると、青梅屋の三男坊が婿にきまって、もう結納までとりかわしたというんだからおさまらない。……俺とお源は去年の暗闇祭にきっぱりとした関係《わけ》になっているンだから、お源の婿はこの桜場清六。強情でも騙りでもねえ、まぎれもないその証拠はこの銀簪、てなわけで青梅屋の店さきへ大あぐらをかいて啖呵《たんか》を切ったンです。……青梅屋のほうじゃ竦《すく》みあがっちまった。結納の翌々日、しかも相手もあろうに乱暴無類の桜場清六だというんだから手も足も出ない。すったもんだのすえ府中の顔役の二引藤右衛門《にびきとうえもん》、これに仲へ入ってもらって三百両という金でおさまってもらうことにした。……桜場のほうは二引に頭のあがらないわけがあって、その場はそれで承知したんですが、お源のことが忘れられないとみえ、小料理屋を飲みまわってグデングデンになったすえ、いまに青梅屋を鏖殺《みなごろ》しにして男の一分を立ててやる。暗闇祭で出来あってちょうど一年目、あんな青二才に見かえられた鬱憤ばらし、その日が生命《いのち》の瀬戸ぎわと思え、なんて凄いことを口走る。これを聞いたのは一人や二人じゃないんです。……酔ったまぎれのたわごとと取れないこともないが、殺気立った気狂いじみた男のことだから、ひょっとすると本当にやりかねないものでもない。……ところで、困ったことには近江屋のほうは、これが氏子総代で、毎年の例で一家じゅうがお渡御の行列にくわわる定めになっていて、どうにものっぴきならない。たぶん、杞憂《きゆう》ではあろうけれど、万一のためにどなたかひとりお差立てねがい、一家の生命の瀬戸ぎわをお護りくださるわけにはまいりますまいか、という鉄五郎からの早文で、それで、こうして出かけて行くところ
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