道楽者くずれの小鰭の鮨売などに迷って駈けだそうなどとは考えられない。仮に小鰭の鮨売がこの事件に関係があるとするなら、これには、裏になにか複雑《いりく》んだアヤがなければならぬはず。
 アコ長は、真顔になって、長い顎を撫でながら、とほんとなにかかんがえていたが、そのうちに、れいによって唐突《だしぬけ》に、
「おい、ひょろ松、それで鰭売はどう言うんだ」
「……たしかに、その日その刻、おっしゃる家の近くを通りましたが、あっしは塀の外をふれて歩いたばかり……。ちょうどその日、浅草材木町の石田郷左衛門の家と下谷の山本園の近くで、佐吉というその鮨売がふれて行くのを見ていたものがいて、それが証人になっているンですから佐吉の言うことには嘘はないらしいンです」
「それは、どこの売子だ」
「両国の与兵衛鮨の売子です」
「ほかの二人のほうはどうだ」
「大桝屋のお文のほうは、堺町の金高鮨の売子で新七。……桔梗屋のお花のほうは、深川の小松鮨の売子で、八太郎というンですが、この二人のほうもべつに娘たちに近づいたようすはないンです」
「それはそれでいいが、そいつらはいったいなんと言ってふれて歩いたんだ」
「……小鰭の鮨や、小鰭の鮨……」
「笑わしちゃいけねえ。小鰭の鮨売が小鰭の鮨というのには不思議はなかろう。そのほかに、なにか無駄なセリフがなかったのかと訊ねているんだ。文句にしろ唄にしろ、娘を引っぱり出すような気障《きざ》なふれ方をしたのじゃなかったのか」
「いいえ」
「こいつア驚いた。どうしてそれがわかる」
「なにしろ、そういういい声なンで、お店の番頭や丁稚が耳の保養のつもりで待ちかねていて、きょうの鮨売は昨日のよりはいい声だとか渋いとかと評判をするンです。そういうわけですから、ふれ声の中になにか気障な文句でもまじったら、誰にしたって聞きのがすはずはない。佐吉にしろ、新七にしろ、また八太郎にしろ、その日その家の近くでふれ声を聞いていたのは一人や二人じゃないンですから、これには間違いはありません」
「おやおや、それじゃまるっきり手も足も出やしない。……すると、なんだな、ひょろ松、こりゃア神隠しだ」
「じょ、冗談。……そんなこと言ってなげ出してしまっちゃ困ります。なんとか、もうすこし考えて見てください」
「それまでに言うなら、もうすこし頭をひねって見ようか」
 と言って、腕を組み、
「おい、ひょろ松、鮨売は娘のそばに近寄らなかったろうが、しかし、娘たちはその鮨を喰ったろう」
 ひょろ松は、えッと驚いて、
「ど、どうしてそれをご存じです」
「どうしてもこうしてもない、そうでなけりゃア、筋が通らないからだ」
「……お察しの通り、実は、こういったわけだったンです。三人の鰭売は、なるほど塀ぎわにも裏木戸にも店さきにも寄りはしませんが、町角のよっぽど遠いところに小僧が先まわりをして鮨売を待っていて、番頭たちのお八ツの鮨を買って旦那や大番頭に知れないようにこっそりと店へ持って来るンです。……番頭ばかりじゃない、それには奥から頼まれた分もはいっている。小鰭の鮨など買いぐいするところを見つかると母親がやかましいから、娘づきの女中がその都度《つど》そっと小僧に頼む。小僧が懐中をふくらませて帰ってくると、奥の女中が店の間で待っていて暖簾ごしにお嬢さんの分をこっそり受けとるという寸法なんです」
 顎十郎は、顔をしかめて、
「お前の話はどうもくどくていけねえ。いったい、喰ったのか喰わなかったのか、どっちだ」
「喰いました」
「ほら見ろ、なぜ先にそれを言わねえンだ。それさえ先にわかっていりゃアむずかしいことはなにもありゃしなかったンだ。……くどいようだが、すると、その四人の娘たちは鮨を喰ってから駈け出したんだな」
「まあ、そういう順序でしょう」
「まあ、と言うのはどういうんだ」
「そのへんのところだろうと思うンで。……じつは、そこンところはまだ訊いていなかったんです。もっとも、こりゃア調べりゃアすぐわかります。……いま伺っていると、喰ったか喰わないかが妙にひっからんでいるようですが、娘たちがもし鮨を喰ったとすると、それがなにか曰《いわ》くになるンですか」
「まア、ひょろ松、割り箸の中からいったいなにが飛びだす」
「黒文字《くろもじ》が出ます」
「それから?」
「恋の辻占。……あッ、なるほど、それだッ」
 顎十郎は、ニヤリと笑って、
「ようやく気がついたか。鮨に曰くがあるンじゃない。その恋の辻占に文句があるンだ。……ひょろ松、その三人の鮨箱はちゃんと押えてあるンだろうな」
「へえ、そこにぬかりはございません。鮨のほうは腐ったから捨てましたが、割り箸はそっくり残っております」
 アコ長は、気ぜわしく立ちあがって、
「じゃア、これから行って調べて見よう。……鮨箱の中からどんな辻占が出るか、それが楽しみだ……とど助さん、毎度のことでご迷惑でしょうが、またひとつ交際《つきあ》ってください。鮨じゃないがこれも腐れ縁でねえ……」

   三津五郎《みつごろう》

 常盤橋御門内、北町奉行所の御用部屋。
 坊主畳を敷いた長二十畳で、大きな炉を二カ所に切り、白磨きの檜の板羽目に朱房のついた十手や捕繩がズラリとかかっている。
 御用部屋の中に割り箸の山をきずき、アコ長、とど助、ひょろ松の三人がその前に妙な顔をしてぼんやり坐っている。
 伝馬町へひきあげてあった四十人の鰭箱を取りよせ、三人がかりで箸を割っては妻楊枝に巻きついている辻占の紙を一枚ずつ克明に読んで見たが、他愛のない駄洒落ばかりで、かくべつ、どうという文句にも行きあたらない。
 少々じれ気味になって、売子を出している江戸中の鮨屋へ一軒のこらず下ッ引を走らせ、店にある割り箸をそっくり引きあげて持って来させる。いやもう、たいへんな数。御用部屋の中は割り箸だらけになって三人の坐るところもない始末。
 さすがのひょろ松も、うんざりして、
「こいつアいけねえ。これをいちいち調べていたら来年の正月までかかる。……ねえ、阿古十郎さん、どうでもこいつをみなやっつけるンですか」
 とど助も、あきれて、
「朋友のよしみですばってん、割り箸と引っくんで討死もしましょうが、こりゃとうぶん割り箸の夢で魘《うな》されまっしょう」
 下ッ引どもはおもしろがって、ワイワイ言いながら手つだう。九ツごろから始めて日暮ちかくまでせっせと調べたが、割り箸の山はまだ三分の一も片づかない。
 日ごろあまりものに動じない顎十郎もさすがにうんざりしてきたと見えて、何百本目かの割り箸をさいて辻占を読んでいたが、
「……※[#歌記号、1−3−28]人目の関のあるゆえに、ほんに二人はままならぬ……か、これは、くだらない」
 と、呟いて、辻占を畳の上になげだし、
「どうも、こいつはいけなかったな。こんどばかりは味噌をつけた。すると、割り箸のほうでもなかったらしい。となると、こりゃアやっぱり神隠し。いや、どうもお騒がせしてすまなかった」
 と、わけのわからぬことをブツブツ言いながら、とど助をうながして御用部屋を出て行く。ひょろ松は、追いすがって、
「……阿古十郎さん、あなたはすっ恍けの名人ですが、きょうのは、またいつもの伝なんでしょう」
 顎十郎は、ヘラヘラ笑って、
「まずまずそのへんのところだ。お前がむこう見ずに鮨売の総渫いなんぞしたもんだから、どうにも後手がつづかなくなった。こんな大騒ぎをすりゃアどうしたってむこうが怯気《おじけ》づいて引っこんでしまう。引っこまれてはこちらが大きに迷惑。なんのつもりでこんなことを始めたのか、また、四人の娘がどこに押し匿《かくま》われているのか、今までの段取りではまるっきりあたりがつかねえ。いま御用部屋であんな馬鹿をして見せたのは、しょせん、むこうを安心させて誘いだし、是が非でも、せめてもう一遍やってもらうつもり」
 ひょろ松は、仔細らしくうなずいて、
「辻占のはいった割り箸は、なにも鮨屋にかぎったことじゃない。割り箸に曰くがあるというンなら、鮨屋の箸を割って見ただけでおさまりのつく道理はない。江戸じゅうの割り箸をぜんぶ調べて見なけりゃアならねえわけ。あなたほどの人がこんなことに気がつかないわけはないのだから、こりゃア、テッキリなにかアヤがあるのだと睨んでいました。……それで、これからどうします」
「なんでもいいからこちらの間違いだったということにして、鮨売をみんな放してしまえ。そこまでやったら、むこうは油断をして、かならず、引っかかって来るにちがいないと思うんだが」
「なるほど。では、あっしは、これからすぐ伝馬町へ行って……」
 気早に駈け出そうとするのを、顎十郎は押しとどめて、
「待て待て、まだ後があるんだ。……お前も見たはずだ、藪下の菊人形。……植半の小屋に坂東《ばんどう》三津五郎の似顔にした『小鰭の鮨売』の人形があったが、お前、あれをどう思う」
「どう思うといいますと」
「歌舞伎の所作事《しょさごと》の物売[#「物売」に傍点]と言えば、まず、乗合船の『白酒売《しろざけうり》』。法界坊の『荵売《しのぶうり》』。それから団扇売、朝顔売、蝶々売。……魚のほうでは、立花屋の『鯵《あじ》売』『松魚《かつお》売』てえのがあるが、小鰭の鮨売というのはまだ聞かない。ところで、立札には、ちゃんと所作事としてあった。……いったい、これはどういうわけなのか、足ついでに猿若町へ行って、それとなくその次第をききこんで来てくれ。おれはとど助さんと茅場の茶漬屋で飯を喰いながら待っているから」
 アコ長ととど助が約束の場所で待っていると、ほどなくひょろ松が駕籠を飛ばして帰って来た。
「……阿古十郎さん、ちょっと変ったことがありました、こういう話なンです。……こんど大和屋《やまとや》が名題に昇進した披露をかねて立花屋の『鯵売』のむこうを張って、常磐津文字太夫《ときわずもじたゆう》、岸沢式佐《きしざわしきさ》連中で『小鰭の鮨売』という新作の所作事を出すことにきまりました。これは、頭取と幕内と大和屋の三人だけの内証《ないしょ》になっているンですが、どこからもれたのかこちらよりさきに菊人形にされてしまい、中村座では大きに迷惑をしているンで……」
「ふむ」
「……ところで、もうひとつ耳よりな話があるンです。このひと月ほど前から市中の女髪結《おんなかみゆい》や風呂屋で、こんど大和屋が小鰭の鮨売の新作所作事を出すについて、ようすを変えて鮨売になり、市中を呼び売りして歩く。うまく三津五郎だと見ぬいたひとには家紋入りの印物《しるしもの》をくれるという噂が立っているンです。……金春町《こんぱるまち》のお兼の女髪結へ寄って見ましたが、なるほどたいへんな評判。髪を結いに来ている娘や芸者が髪などはそっちのけでズラリと格子窓のそばへ並び、鮨売が来たらその中から大和屋を見つけて印物をもらうのだとたいへんな騒ぎをしておりました」
 顎十郎は、
「ほほう、そんなことがあるのか。それほどの評判を三人が三人ながら、きょうまで知らなかったというのは間ぬけた話。馬鹿なこともあるもんだ」
 と言って、ひょろ松のほうへ振りかえり、
「ひょろ松、じゃア、これは大和屋の仕業か」
「芸はうまいが大和屋は名代の女たらし。このせつ評判がいいので図に乗ってそんなことをやったのではないでしょうか。……しかし、四人までも堅気の娘をおびき出してとじこめておくということになりゃア、これは大事件。名題昇進の披露を前にひかえて、いくら三津五郎でもそんな馬鹿はしなかろうとは思いますが、ことによったらことによる。これからすぐ中村座へ出かけて行って、三津五郎を問いつめてみようじゃありませんか。ひょっとしたら瓢箪から駒が出るかも知れない」
 勘定をはらって、すぐ猿若町。ひょろ松がさきに立って楽屋口から頭取の座に入って行くと、ちょうど三番目の『雨夜蓑笠《あまよのみのがさ》』の幕がおりたところで、三津五郎が芸者美代吉の扮装《きつけ》で舞台から帰って来た。
 ひょろ松が声をかけると、三津五郎はちょっと顔色を変えたが、悪びれたようすもなく、三人をじぶんの部
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