っそりわたくしのところへやっておいでになりまして、これをおもて立てれば自分一家の恥だから、そうと気がついていたがわざと手先の耳にも入れずにおいた。今のうちに返してくれさえすれば胸をさすって内分にしてやるからという意外なお話。わたくしといたしましては寝耳に水。まるで狐につままれたような気持。……名題昇進の披露に『小鰭の鮨売』の新作所作を出しますことはまだまだ先のことで、わたくしと座元と頭取の三人の胸にだけあること。どうして洩れたのか、それさえ訝しく思うくらい。いわんや、わたくしが鮨売になって町をふれ歩き、わたくしと見やぶった人に印物をくれるなどというのは思いもよらぬことなのでございます」
 ちょっと言葉を切り、
「……ところで、わたくしが鮨の呼売りをして歩いたと言われている八ツから七ツまでの時刻には、毎日寺島の寮で父親の看病をしておりまして、そこから楽屋入りをしておりますような次第。その時刻にわたくしが寮におりましたことは、大勢、証人がございます。……それで、大桝屋の旦那を寺島村の寮までお伴《ともな》い申し、わたくしが鮨の呼売りなどが出来なかった次第を実証いたしましたところ、それでようやくお疑いがとけたというわけでございました。……それにもうひとつ、わたくしの身のあかしを立てることがございます。只今のお言葉のうちに、わたくしがじぶんで鮨売になって市中を徘徊したという条《くだり》がございましたが、憚りながら、それは役者というものをご存じのないおかんがえ、小鰭の鮨売の型をとるためなら決して、じぶんで鮨売などにはなりません。鮨売の後からついて歩いて、声の調子やメリハリの細かい勘どころを仔細に見とりいたします。じぶんが鮨売になったのではそういう見とりは出来ません。なにとぞ、そのへんのところも、しかるべくおかんがえあわせくださいませ」
 顎十郎はうなずいて、
「今までつくづく伺っていたが、お前さんの話に嘘はない。……八ツから七ツまでのあいだ、寮にいたかいないか、そんなことはともかく、わたしならば鮨売にはならないだろうというひと言が、お前さん、はっきりと無実を言いといている。……なるほど、こいつは理屈だ。型をとるのにじぶんが鮨屋になるやつはない。もっとも過ぎておかしなくらい。なぜそういうことに今まで気がつかなかったか」
 いつになく殊勝らしいことを言っておいて、
「こうなったら正
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