ているとは知らなかった。いや、どうも恐れ入った、見なおしたよ。……じゃ、なんだな、六平、お前の言うことなら加代姫さまはどんなことでもうんと言うというんだな、それにちがいねえんだろうな」
「冗く念をおすには及ばねえ」
「じゃア、さっそくだが、加代姫さまをここへ呼びだして、俺っちに一杯ずつ酌をしてもれえてえんだがお願いできましょうか」
六平は、大きくうなずいて、
「ひッ、そんなことはお安いご用。お茶づけサーラサラでえ。ちょっと一筆書いてやりゃア、間をあけずに舞いおりていらっしゃらア」
「おお、そうか、じゃア、ぜひそういう都合にお願い申そうじゃねえか。三十二万石の大名のお姫さまに酌をしてもらえたら、男に生れたかいがあらア。さっそく一筆……といっても、お恥ずかしながら、文字をのたくるような器用なやつは生憎《あいにく》ここにはいあわさねえ」
よせばいいのに、とど助が、
「よろしい、そういうことならば、拙者が一筆書きましょう」
アコ長が、膝をつついてよせと言ったが、とど助は、上機嫌でそんなことには気がつかない。サラサラと書き流したのを、こいつア面白い、で、一人がそれを持って駈け出す。
それから、ものの小半刻、『かごや』の門口にひとがたたずむ気配。
どこのどいつだ、うさん臭え、なんでひとの門口へマゴマゴしてやがる、手近にいたのが、
「やい、こん畜生」
ガラリと木戸を引きあけて見ると、
スッと上身を反らして立っていたのが、藤堂和泉守の御息女加代姫さま。
髪をさげ下地にして、細模様の縫入墨絵《ぬいいれすみえ》で河原撫子《かわらなでしこ》を描いた白絽《しろろ》の単衣《ひとえ》に綿の帯を胸高《むなだか》に締め、腕のあたりでひきあわせた両袖は、霞かとも雲かとも。
膚はみがきあげた象牙のように冴えかえり、女にしてはととのいすぎた冷い面ざし。鷹揚《おうよう》な物腰の中にしぜんにそなわる威厳は目ざましいほど。
よもや、と思っていた。
あっけに取られて腑ぬけのようになってぼんやり見あげている顔々を尻目にかけ、引きあけた木戸から雲に乗るような足どりでスラスラと入って来て、爪さきのそる白玉のような手で唐津焼の徳利を取りあげるとスラリと立ったまま、
「酌をしてとらする」
六平をはじめ、五人のももんがあ[#「ももんがあ」に傍点]、うわッ、と、もろともに床几からころげおち、
「と、と、飛んでもございませんこと……」
「ど、ど、どうつかまつりまして」
加代姫は、片額《かたびたい》に翳《かげ》がさすような、なんとも凄味のある薄笑いをチラと浮かべて、
「遠慮をしないでもいいのだよ。……お出し。……盃を出せ、酌をしてとらせる」
顎十郎は、とど助の膝をつき、
「とど助さん、こりゃア凄いことになりました。……逃げましょう。こんなところでマゴマゴしていたら、えらいことになります」
とど助は、眼玉をギョロギョロさせて、
「いかにも! 逃げまッしょう、とてもかなわん」
「いいですか。じャ、ひい、ふう、みいで驀地《まっしぐら》に飛びだすんですぜ」
「心得もうした。じゃア、掛け声のほうを……」
ひい、ふう、みい……まるで暗闇坂《くらやみざか》でひとつ眼小僧にでもあったときのよう、大きな図体《ずうたい》をしたふたりが、わあッ、と声をあげながら一目散《いちもくさん》に居酒屋から逃げだした。
毒流し
秋葉《あきわ》の原の火避地《ひよけち》。
原の入口に大きな樗《おうち》の樹があって、暑い日ざかりはここが二人の休憩場《やすみば》になっている。
朝がけに両国まで客を送って行って、これでこの日の商売はおしまい。どっちももう働かないつもり。通りがかった枇杷葉湯《びわよとう》を呼びとめて、しごくのんびりした顔で湯気を吹いてるところへ、息せき切って駈けて来たのが、北町奉行所支配のお手先、神田屋の松五郎。
鷲づかみにした芥子玉《けしだま》の手拭いでグイグイと頸すじの汗を拭いながら、
「ここへさえ来りゃ、かならずひっ捕まえることが出来ると見こんですっ飛んで来たんですが、それにしても、まア、うまく捕まえた」
「おい、おい、ひと聞きの悪いことを言うな。黒のパッチに目明し草履、だれが見たって御用聞と知れるのに、捕まえたの追いこんだの、枇杷葉湯《びわよとう》がびっくりして逃げ腰になってるじゃねえか。おりゃア、お前にひっ捕まえられるような悪いことをした覚えはねえぜ、いい加減にしておけ」
ひょろ松は、うへえ、と頭へ手をやって、
「こりゃ、どうも失礼。口癖になってるもんだから、つい……これはとど助さん、今日は」
「あんたはいつも裾から火がついたように駈けずりまわっているが、よくすり切れんことですのう」
「こりゃアどうも、さんざんだ」
「それはそうと、ひょろ松。いったい、なんでそんなにあわてくさっているんだ」
ひょろ松は、顎十郎とむかいあって中腰になり、
「いや、どうも、近来にない大事《おおごと》がおっぱじまってしまって……。実は、藤堂和泉守さまの御息女の加代姫さまというのが、駕籠舁、中間こきまぜて束にして六人。まるで川へ毒流しでもするように、しごくあっさりと殺《や》ってしまったんです。……大名のお姫さまだけあってひどく思い切ったことをする。今朝からこれでえらい騒ぎになっているんです」
「なんで殺した」
「酒に番木鼈《マチン》という毒を入れて飲ませたんです」
「こりゃア、おどろいた」
顎十郎は、とど助と眼を見あわせ、
「とど助さん、世の中にはいろいろなことがありますな。それが事実としたら、実にどうも、際どいことでした」
さすがの、とど助も、息をついで、
「いや、まったく。あのまま意地きたなくいすわっていたら、鯰なみにポックリ浮きあがってしまうところでした。それも、あなたのお蔭」
「お蔭なんていうことはありません。あの姫さまが毒を盛るだろうなどと、いくらあたしでもそこまでは察しない。あたしは、元来、ああいうお姫さま面が嫌いでね、それで、まア、恐れて逃げだしたようなわけだったんですが、こりゃとんだ生命《いのち》びろいをしました」
二人の話を聞いていたひょろ松が、怪訝な顔で、
「なにか耳よりな科白《せりふ》がまじるようですが、そりゃア、いったい、なんのお話です」
顎十郎は、恍けた顔で、
「実はな、ひょろ松、われわれ二人もあぶなく毒流しにかかりかけた組なんだ」
ひょろ松は、おどろいて、
「えッ、すると……」
「ああ、そうなんだ。あの六人とひっつるんで大騒ぎをやらかしているところへ人間を氷漬けにしたような凄味なのが入って来たんで、せっかくの酒がさめると思って、泡をくって逃げ出したんだ。……それはそうと、あの居酒屋へ加代姫が出むいて来たことがどうしてわかった」
「中間の芳太郎というのがこれが息の長いやつで、しゃっくりをしながら朝まで生残っていて、虫の鳴くような声で、大凡《おおよそ》のありようを喋ったんです」
「ふむ、芳太郎はまだ生きてるのか」
「南番所《みなみ》の出役があると、間もなく息を引きとりました」
「馬鹿な念を押すようだが、すると、亭主の六平ぐるみ、あの六人はひとりも助からなかったんだな」
「残らず死んでしまいました」
「なるほど、そりゃア大事だ」
ひょろ松はうなずいて、
「近くは法華経寺事件。それから、あなたがお手がけなすった紀州さまのお局あらそいなどの事件もあって、大きな声じゃ申されませんが、お上のご威勢は地に墜ちたようなあんばい。折も折、お屋敷うちならともかく、三十二万石のお姫さまが、町方まで出かけて来て六人の人間を毒で殺すなんてえのは実に無法。阿部さまもことのほかご憤懣《ふんまん》のおようすで、上の威勢をしめすためにも、政道のおもてに照して明白にことをわけるようにというご下命。それに、ご承知の通り、今月は南番所の月番で、あのえがらっぽい藤波がこの一件をさばくわけなんですから、どのみち、加代姫さまは無事ではすみますまい」
アコ長は、れいの長い顎のはしをつまみながら、うっそりとなにか考えこんでいたが、だしぬけに口をひらき、
「それで加代姫は、じぶんが殺ったと白状《はい》たのか」
「いいえ、そうは申しません。まるっきりじぶんの知らぬことだと突っぱるんです」
「それは、そうだろう」
と言っておいて、とど助のほうへ振りかえり、
「ねえ、とど助さん。あなたもそうお思いになるでしょう。いくら大名のお姫さまでも、かりにもひとを殺せば無事にはすまない。いわんや藤堂和泉守は外様《とざま》大名。事あれかしの際だから、かならず三十二万石に瑕がつくくらいなことは知っていよう。どんな経緯《いきさつ》があったか知らないが、陸尺のいのちと三十二万石とをつりかえにする馬鹿はない。殺すにしたって、陸尺ひとりぐらいを片づけるにはどんな方法だってあります。気のきいた奴にバッサリ殺らしてしまえばそれですむこと。ひと眼のある中をわざわざじぶんが出かけてゆくなんてテはない。それじゃアまるでじぶんが殺りましたと見せびらかすようなもの。このへんから推《お》すと、あの六人を殺したのは加代姫ではないような気がする。あなたのお考えはどうです」
とど助は、頬の髯をしごきながら、
「同感ですな。いかにうっそりなお姫さまでも、そぎゃん愚《ぐ》なことをするはずはありまッせん。いわんや、じぶんが入って来たところをわれわれ二人に見られたことも承知しとるのじゃけん」
「そうですよ。こりゃ、たしかに冤罪《えんざい》ですな。……ひょろ松、お前の意見はどうだ」
「……あっしは、こんなふうに考えておりました。加代姫は、六平になにか弱い尻をにぎられていて、今まで強請《ゆす》られるたびに金を出していた。そのへんまでは我慢が出来たが、酌をしに来いとまでつけあがるんじゃ、この先のことを思いやられる。下郎は口の悪《さが》なきもの。放っておくと、ひとに知られたくないじぶんの密事《みそかごと》まで喋るようなことになろうとかんがえ、それで、思い切ってこんなことをやらかしたんだろうと……」
顎十郎は、へへら笑って、
「なにをくだらない。子供が絵解きをしやしまいし、そんなことぐらいは改まって言うがものはねえ、わかり切った話だ」
ひょろ松は、頸へ手をやって、
「あまり常式でお恥ずかしいんですが、それというのは、あなた方おふたりが、加代姫が入って来たところを見たなんてえことを知らなかったから。……加代姫は、うまうま六人を盛り殺し、じぶんが『かごや』へ出かけて行ったことなぞ、ひとにわかるはずはないと多寡をくくっているんだと思いました。……芳太郎も死ぬ前にそんなことを申しました。あっしがみなと一緒に死んでしまうと、加代姫がここへ来たことを知らせる奴がいなくなる。それがいかにも残念。字が書けりゃア壁の端へでも『加代姫』と書きつけておくところなンですが、悲しいことには無筆。旦那方がおいでになるまでは地面にくらいついても虫の息をつなごうと、それこそ死んだ気になって頑張っていたンだと……」
「なるほど」
「しかし、お話を聞けば、じぶんが『かごや』へ出むいて行ったことを、一人ならず二人までに見られているンだから、そうあるところへいくら加代姫だってそんな馬鹿なことはしなかろう。これは、理屈です」
と言って、不審らしく首をかしげ、
「そのほうは納得がいきましたが、ここに不思議なのは加代姫を誘いだした手紙。これが大師流のいい手跡《て》でとても中間陸尺に書ける字じゃない。この手紙のぬしは誰だろうというんで、藤波は躍気《やっき》になってそいつを捜してる模様です」
とど助は、てれ臭そうな顔をして、
「……どうも言いにくいことだが、ひょろ松|氏《うじ》、それは、わしが書いた」
ひょろ松は、げッと驚いて、
「とど助さん、そ、そりゃほんとうですか。なんでまた、そんなつまらねえことを……」
「いや、面目しだいもない」
「面目どころの騒ぎじゃない。そういうことならあなたも関りあい。これは一応しょっぴかれます」
とど助は、しょげて、
「どうも、これは困った。な
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