が、これは引きとってくれと言ったというんですな」
 深川、霊巌寺門前町《れいがんじもんぜんまち》の葬具屋、平野屋の店さき。
 上り框へ腰をかけた顎十郎に応待しているのは、ひと掴みほどの白髪の髷を頭にのせた平野屋の隠居の伝右衛門。腰が曲って、だいぶ耳が遠い。身体をふたつに折り曲げてキチンと膝に手をおき、
「さようでございます。敷台へ湯灌の道具をおろしているところへ、奥から手代が飛んで出てきて、そういう話。棺もおろすやおろさずですぐ引きとってまいりました。……先刻も申しあげましたように、お米さんと手前どもの孫娘のお浪とは踊の朋輩。踊の帰りにはいつも遊びに寄って、お浪とふたりで復習《さら》っていましただけに、時疫《じやみ》で枕もあがらぬということで案じておりましたところ、七日の夕方の五ツごろ、万屋から使いがあって先ほど息を引きとったからすぐ棺をということですから孫娘の仲のいい友達、せめて棺だけはじぶんで背負って行ってやろうと、小僧に湯灌のものをかつがせ、杖をつきつき万屋まで届けにまいりましてございます」
「なるほど、念のためにもう一度おうかがいしますが、棺はけっして玄関から奥へ入らなかったんですな」
「奥へ運びますどころか、背からおろすやおろさず……」
 顎十郎は、バラリと腕をといて、
「なるほど、よくわかりました。序《ついで》のことにもうひとつ馬鹿なことをお訊ねしますが、もしかして、万屋まで背負って行く途中で、道ばたへ棺をおろして休んだようなことはありませんでしたか」
「茂森町といえばつい目と鼻のさき、おろすも休むもそんな暇もないわけで……」
「いや、ごもっとも。世の中にはいろいろ変ったこともあるものですが、ひょっとして、背中の棺がその日にかぎっていつもよりしょい重りがしたというようなことはございませんでしたか」
「……棺桶といえば椹《さわら》か杉にかぎったもの。棺桶は棺桶だけの重さ。その日にかぎって重かろうわけなぞありますものか。老人をおからかいなすっちゃいけません」
「いや、どうもこれは失礼。飛んだお手間を……」
 トホンとした顔つきで平野屋の店さきを出ると、そこから霊巌寺門前町の浄心寺の境内。
 本堂の右手について墓地のほうへ行きかかると、墓地の入口からスタスタ出て来たのが、ひょろ松。
「存外に早かったな。……どうだった、棺をあけたような証拠があったか」
 ひょろ松は、うなずいて、
「たしかにあります。棺に鍬をうちあてた痕もあるし、棺の蓋をこじあけた跡もある。……ところがそれは昨日や今日のもンじゃない。どう見てもふた月か三月前の仕事」
「たぶん、そんなことだろうと思っていた。お梅が死んだのをきっかけにしたんでは、これほどの念の入った筋立ては出来ないはずだから、すると、お梅もやはりそいつらの手で気長にすこしずつ毒でも盛られて弱らされ、証拠の残らないようにして殺されたのだと思われる。……思うに、よっぽど以前から手がけた仕事にちがいない」
「なんといっても、五十万両の身代をウマウマ乗っとろうという大仕事。おっしゃる通り、たぶんそのへんのところでしょう。……それはそれとして、阿古十郎さん、あなたのほうはどうでした」
 顎十郎は、頭へ手をやって、
「おれのほうは大失敗。……お前の畚《もっこ》に乗せられたばっかりに飛んだ赤ッ恥を掻いた。……おい、ひょろ松、お気の毒だがな、棺桶は玄関から奥へは入ってはいなかったんだぜ」
「えッ」
「……かついで行ったのはお米をかわいがっていた平野屋の隠居。途中で棺をおろしてもいなければ休んでもいない。のみならず、棺は一度も伝右衛門の背中から離れていないんだから世話はねえ。せっかくの思いつきだったが、棺桶のほうは諦めるよりしょうがない」
「すると、いったい、どういう方法で……」
「と、言ったって、おれにはわからねえ……」
 と言って陽ざしを眺め、
「祝言のある夕方の六ツ半までには、あとわずか三刻《みとき》。盃のすまねえうちになんとか埓をあけなくちゃならねえンだから、こんなところでマゴマゴしちゃいられねえ。ともかく小塚っ原の投込場《なげこみば》へ行って八間堀へ浮いた首なし女の死体を験《あらた》めて見ることにしよう。……いくらなんでも茂森町から運び出したお米の首を斬って、つい目の先の堀へ投げこむほどのことはしなかろうとは思うが、しかし、なんとも言えない。万一、それがお米の死骸だったら、これこそ拾いもの」
「いかにもおっしゃる通り。今日からこちらの月番で存分なことが出来ますから、じゃ、これからすぐ……」
 千住まで駕籠をやとって飛ぶようにして小塚原。投込場同心に筋を通すと、下働きの非人が鍬をかついで非人溜りから出てきた。
 棺があるわけでもなければ筵でつつむわけでもない、草原のほどのいいところを浅く掘って投げこみ
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング