手で杓を取って左手から先に洗うのです。……もうひとつは、これもほんのちょっとしたことですけど、姉は枕に汗がつくのを厭がって、ときどきうっとりと眼をひらくと、枕もとにいるあたくしに、きまって枕を取りかえてくれとせがむのですが、それが忘れたように一度も言わなくなり、気味が悪いだろうと思われるような汚れた枕紙に頭をのせて平気でいるのです」
「ちょっとお訊ねしますが、それは、いったい、いつごろからのことですか」
「……この月の七日の夕方、急に変がきまして、一時は絶気《ぜっき》して手足も冷たくなり、泣く泣く葬式の支度をしかけたのですが、あたくしがそんな気がしだしたのは、その翌日の、八日ぐらいからのことだと思います」
アコ長は、ボッテリした顎の先をのんびりと爪繰《つまぐ》りながら、
「いや、よくわかりました。それでお米さんとやらが、そうやすやすとすりかえたり入れ変ったりすることが出来るようなぐあいになっていたのですか」
利江は、飛んでもないというふうに頸を振って、
「姉は熱のかけ冷めがはげしく、風にあたってはよくないということで、ずっと土蔵の中で臥《ふせ》っておりました。土蔵と申しても座敷土蔵《ざしきどぞう》で、廊下にかこまれた中庭にありますので、前栽からも遠く、もちろん玄関や裏口などからもよっぽど離れておりますんです。それに、姉の枕もとには父と母とあたしが番がわりに、いっときもそばを離れぬようにして附添っておりましたのですから、たとえどのようなことをしてもあの大病の姉を土蔵から運びだし邸の外へつれてゆくなどということは思いもよらず、まして、替玉になるひとが数々の座敷を通って誰にも見咎められずに土蔵の中へ入ってくるなどということは決して出来ることではありません」
「いよいよもってこれは不可解。すると、これはどういうことになるンです」
利江は、悧発そうな眼でアコ長の顔を見つめながら、
「きょうお願いにあがりましたのは、そのことなンです。どんなことがあっても入れ変わるの、すりかえるのということが出来るはずのないのに、いま姉といっているのは確かにほんとうの姉ではなくて別なひと。これは、いったい、どういうわけなのか、そのへんのところをキッパリと見きわめていただきたいと思いまして、それでこうしておうかがいしたのでした。あなたがお調べくださって、どんなことがあっても、すりかえるの入れ
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