ているとき、傘に雨があたる音がし、小さな足音がたゆとうように家の前を行きつもどりつしていたが、そのうちに含みのある優しい声で、油障子の外から、
「お訊ねいたします、こちらが、仙波さまのお住居でございましょうか」
 と、声をかけた。

   お米

 蔵前《くらまえ》ふうの根の高いのめし[#「のめし」に傍点]髷。紫の畝織縮緬《うねおりちりめん》に秋の七草を染めた振袖。下膨《しもぶく》れのおっとりした顔つきの十六七の娘。贅沢な衣裳《みなり》とどことなく鷹揚なようすを見ても下町の大賈《おおどこ》の箱入娘だということが知れる。
 悪びれないようすで古畳の上へあがって来ると、あどけなくアコ長の顔を見つめながら、
「あたくしは深川茂森町の万屋和助の末娘で利江と申すものでございますが、姉が生きておりますとき、金助町の花世さんのところで、一二度お目にかかったことがございましたそうで、そのご縁にあがって、折入ってお願いしたいことがございまして……」
 たった今、ひょろ松が話したのと同じいきさつを手短かに物語ってから、キッパリとした顔つきになって、
「……じつは、これからあたくしが申しあげますことは、いっこう取りとめないようなことなので、あまり馬鹿々々しくてお笑いになるかも知れません。たぶん、あたくしの気のせいでしょうけど、いま、あたくしの家になにか怖ろしいことが始まりかけているような気がしてなりませんの」
 と言って、チラと怯えたような眼つきをし、
「埓もない話ですが、あす祝言する小姉《ちいあね》のお米はなんだかほんとうの姉でないような気がしてなりません。なんとなく他人のような気がして情が移りませんのです」
「と、ばかりではよくわかりかねますが……」
「そうですわ。もっと詳しくお話しなければなりませんのね。……でも、どう言ったらいいのかしら……」
 かんがえるように頸《くび》を傾げながら、
「顔も、そぶりも、声も、どこといってちがうところなどないのですけど、ひと口には言えないようなところに、今までの姉とはちがうようなところがありますのです。気のついたところだけ申しあげますけど、姉のお米はわりに癇の強いほうなもンですから、不浄へ行って手水をつかうとき、かならず左手に杓を持って右から洗うのがきまりで、右手に杓を持つようなことはこれまでただの一度もなかったことですのに、このごろはいつも、右
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