ら本拵えにかかったくらいだから、鯨を持って行くとすれば、どうしたって小屋の一方を毀さなければならぬはず。
ところで、掘立柱はおろか、蓆一枚やぶれていない。鯨が雲散霧消したと思うほかはないのである。
竜の昇天というのは聞くが、鯨の昇天というのはまだ聞かない。なんとも考えようもないことだが、六兵衛としては五百両なげだした大事なネタ。夜のあけるのを待って浅草橋の詰番所《つめばんしょ》へ、恐れながらと訴え出た。
物が物だけに、詰番所の番衆では納まりがつかない。この月は北の月番で、番所からすぐ常盤橋へ訴えをまわす。
伏鐘重三郎を追いまわしてクタクタになったひょろ松が、ちょうど部屋へ引きあげて来たところ。
「なんだって、両国の鯨が盗まれたって、馬鹿にしちゃいけねえ。手前、面を洗ったのか。番所を遊ばせに来ると承知しねえぞ」
番衆は、ヘドモドして、
「じょ、冗談。……朝っぱらから洒落などを言いに来るもンですか、本当のことなンで」
「鯨を、……どうして持って行った」
「えへへ、それがわからねえンで」
「じゃ、本当の話なンだな」
「ええ、ですから……」
「よし、行って見よう」
広小路から垢離場。
小屋の前にはたいへんな人だかり。
「けさがた、鯨が盗まれてしまったンだそうで」
「いいえ、そうじゃありません。鯨が泳いで逃げたってことです」
勝手なことを言いながらワイワイ騒いでいる。
ひょろ松は、人垣を押しわけながら小屋の中へ入って行くと、若太夫から奥役、まるで腑ぬけのようになって腕組みをしたままぼんやりと飾場の砂の上に突っ立っている。
「鯨が盗まれたそうだな」
奥役は、泣き出しそうな顔で、ピョコンとお辞儀をしてから、
「ごらんの通りの始末なンで」
「変ったことをする奴があればあるもの。鯨盗人なんてえのはまだ話にも聞いたことがねえ。いっそ、とぼけた話だぜ」
「とぼけた話どころか、あっしどものほうは生き死にの境なンで。櫓主が五百両も出した代物《しろもの》を、たった二日あけただけで跡形なしになってしまっちゃ、どうにもアガキがとれやしません」
ひょろ松は、ズイと菰掛《こもかけ》のほうへ寄って行って、掘立柱の根方のところをひとわたり調べまわっていたが、また皆のところへ戻って来て、
「どこにも運び出したような跡がねえ。いってえ、鯨なんていうのは、最初っからいなかったんじゃねえのか。くだらねえ人騒がせをするときかねえぞ」
若太夫はおびえた声で、
「どうして、まあ、そんなことが。現在こうして今日までに何千という人に……」
ひょろ松は、ジロリとその顔を見あげて、
「さもなけりゃ同腹《どうふく》だろう。手前らが櫓裏の二階にいて、これだけの物が運び出されるのに気がつかねえはずはなかろう。死んでいたのか眠っていたのか、それとも霍乱《かくらん》でも起してひっくりかえってたのか。生きて眼をさましていたとあれば、それは理屈にあわなかろう、どうだ」
後から六兵衛が、ささり出て来て、
「そうおっしゃるのは、いかにもごもっとも。あっしらのおりましたところは飾場のちょうど真上。あれだけの物が運び出されるのがどうして気がつかなかったか、それが不思議でならねえンで。……よだ六というのが飛んで来てそう言いましたときも、誰ひとり本当にする者アない。馬鹿にしやがると思いながらおりて来て見て、真実、狐に化かされたような気がしました」
落着《らくちゃく》
顎十郎は、ふンと鼻を鳴らして、
「凧にのって金の鯱《しゃち》をはがす頓狂なやつだっている。要用《いりよう》だったら、鯨だってなんだって持って行くだろうさ。別に不思議はありゃアしない」
ひょろ松は、あっけに取られたような顔で、
「要用って、あんな物を、……あんな馬鹿べらぼうなどえらい物を持って行って、いったい、どうする気なンでしょう」
「おれならば鯨鍋にする」
「からかっちゃいけません。正《しょう》の話、あっしには、それが不思議でならねえンです」
「それは不思議でもあろうさ。ひとの都合なんてえものは他人にゃわからねえ。なにか思いこんだことがあって、どうでも要用だったんだと思うよりほかはない。鯨鍋は冗談だが、誰にしたって始末に困る。そうあるべきはずのところを、なにか知ら、たいへんな手間をかけて持って行ったというからには、われわれの知らねえような退っ引きならねえ理由があったのにちがいない。そのへんのところをトックリと考えて見ると、なんのためにこんなことをしたかすぐわかるはずだ」
「阿古十郎さん、じゃアあなたにはなにか、もうお推察《みこみ》が……」
顎十郎は、首を振って、
「そこまではまだおれにもわからない。しかし、鯨をどうして持って行ったか、そのほうだけははっきりとわかっている」
ひょろ松は、おどろいて、
「えッ、本当ですか。いったい、ど、どんなことをして持って行きやがったンでしょう」
顎十郎は、なにをくだらんといった顔で、
「なにもいちいち掘立柱の根を調べるには当らない。どうしたって丸一疋のままで持って行けるわけはないとすれば、切りきざンで小さくして持ちだしたのに違いなかろう、きまり切った話だ」
「でも、切るにしたって、あんな大きな物を」
「一人二人じゃ出来なかろうが、三十人も手わけしてかかれば一刻ぐらいで造作もなく片がつく。最初っから臓腑は抜いてあるンだし、脂抜きはしてあるし、腹の中はガラン洞で、鯨といったってただ骨と肉だけのこと。挽ききるにしろ、刻むにしろ、どうでも手に負えないというような代物じゃない。になって持ちだせるくらいの大きさに刻めば、後は三十人で二三度往復すれば、肉ひとっぺら残さずに運び出してしまうことが出来る。なンとそんなもンじゃなかろうか、なア、ひょろ松」
ひょろ松は、手をうって、
「なるほどね、これは恐れ入りました。が、ひとつわからないことがあります。最初に勘八というのがおりて来て、お次に下座三味線の秀という女がおりて来た。二人がおりて来たときには鯨はたしかに飾場にあったンです。ところで、その次によだ六がおりて来たときには、もう鯨は失くなっている。秀が櫓裏へあがって、よだ六がおりて来たそのあいだはわずか十分足らず。切るにしろ刻むにしろ、そんな短いあいだにあれだけの物を始末できるものでしょうか」
「こいつア驚いた。勘八も秀も鯨にさわって見たとは言っていやしない。しかも、飾場からずっと遠い桟敷の嶺で月の光でぼんやりそれらしい物がいると見ただけのこと」
と言って、飾場の真上に渡した梁丸太にからみついている五つばかりの輪索《わさ》のような物を指さし、
「おい、ひょろ松、あれをなんだと思う。妙なところに妙な物があるじゃないか」
「あれが、どうしたというンです」
「わからなければ言って聞かせてやる。そいつは鯨を描いた大きな絵幕をあの梁からつるし、その後でゆっくりと鯨の始末をしていたのだ。あの輪索がなによりの証拠。つまり、勘八と秀は絵幕に描いた鯨をぼんやりした月あかりで見て、あそこに鯨がいると思っただけのことだ。どうです、ひょろ松先生、合点が行きましたか」
ひょろ松、
「いや、一言もございません。鯨を持って行った方法はそれでわかりましたが、くどいようだが、なんのためにあんな物を持って行ったのでしょうか。丸一疋で持って行ったら見世物にもなろうが、切りきざんでしまったらなんの役にも立ちゃしない」
「おれも先刻からそれを考えているンだが……」
と言って、伏目になって考えこんでいたが、だしぬけに、阿古十郎が、
「おい、ひょろ松、一昨日の晩、お前は伏鐘をどこへ追いこんだと言ったっけな」
「芝浦です」
「なるほど。それで、この鯨はどこへあがったンだ」
「芝浦です」
ひょろ松は、急に横手をうって、
「あッ、畜生、すると、伏鐘のやつは……」
顎十郎は、ニヤリと笑って、
「海岸まで追いつめてもいねえはずだ。あいつは切羽つまって、ちょうど陸あげした鯨の口ン中へ飛びこんで隠れていやがったんだ。この鯨が見世物になろうとは、さすがの伏鐘も気がつかなかったろう。入ったまではいいが、気がついて見ると、千、二千という見物にかこまれて、出るも這いだすもなりゃアしねえ。入る時は無我夢中で飛びこんだろうが、小屋へ運ばれて来てから、鯨が寝ころばねえように杭と綱でしっかりと頭を留められ、中から口を押しあけることもどうすることも出来なくなった。乾児のほうじゃ、重三郎が鯨の中へ飛びこんだことだけは知っている。もうそろそろ這いだして来そうなもんだと思っているのに、いつまでたっても帰って来ないから、見物にまぎれて様子を見に来て見ると、いま言ったような始末なんだ。そこで、思いついたのがこの一件さ……」
ひょろ松は、嚥みこめぬ顔で、
「そんなら、頭を縛った綱だけ取りゃアそれですむことでしょう。そんな手間をかけて鯨を切りきざんで持って行かねえだってよさそうなもんだ……」
「そこが、伏鐘組の尋常でねえところだ。下手な真似をすれば、伏鐘はきょうまで鯨の中にいたんだと見当がつき、それからそれと足がつく。こういう大掛りなことをして鯨が昇天でもしたように見せかければ、みなは不思議のほうに気を取られて、伏鐘のことまで考える暇はない。まず、ざっとこんなぐあいだ」
「よくわかりましてございます。心底《しんそこ》、恐れ入りましたが、もうひとつわからねえことがある。……昨日から今日にかけて江戸じゅうに手を配った大捕物。なかんずく、この両国界隈は辻々、露地の入口まで隙間もなく人をくばって蟻の這いでるセキもなかったはず。北へ行けば、両国橋か千歳橋。南へ行けば両国二丁目の辻番か中ノ橋の辻番所。この四つの関所で四方から袋のようにかこまれているンだから、三十人もの人間が、鯨の肉などひっかかえてウロウロと這いだしたら、たちまち網にひっかかるにきまっているンだが、そういう話も聞きませんでした。……すると、その三十人と伏鐘は、いったい、どこへ行ってしまったというンです、阿古十郎さん」
「お前の感の悪さにもつくづく感服する。その四つの関所を通っていなかったら、四つの関所にかこまれた中にいるンだろう。そうとしか考えようがないじゃないか。その廓の中にある家数は十軒や二十軒ではきかなかろうが、三十人の人間とそれだけの肉をかくせるような構えの家はそう数あるもンじゃない。虱つぶしにして行ったら、二刻足らずで追いつめることが出来よう」
両国二丁目の角屋敷《かどやしき》。
鈴木仁平という浪人者がやっている大弓場《だいきゅうば》。
ひょろ松と顎十郎が、踏みこんで行くと、伏鐘重三郎は、松坂木綿《まつざかもめん》の着物に屑糸織《くずいとおり》の角帯《かくおび》という、ひどく実直な身なりで長火鉢に鯨鍋をかけ、妾のお沢と一杯|飲《や》っていた。
お大名の若殿のような品のいい顔を振りあげて、苦笑いしながら、重三郎、
「仙波さんにかかっちゃかなわねえ」
と、言った。
底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」三一書房
1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
2010年4月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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