のところ。丼《どんぶり》へ入れた銭の重量《おもみ》で前へのめくりそうでしょうがないから、こうやって駕籠につかまっているところなんです」
「今日はそもそもなんたる日でありましたろう。おたがい、なにもこうまでして稼ぐ気はないのだが、ついはずみがついて駈けずりまわりましたが、駕籠屋をして蔵を建てるなんてえのも外聞が悪い。気味が悪いからこんな銭すてっちまいましょうか」
「それは、ともかく、こんなところでマゴマゴしていると、また客にとっつかまる。この間《ま》に提灯を消して急いで逃げ出しましょう」
「それがようごわす」
 提灯を吹消して空駕籠をかつぐと、ほうほうの体で逃げだす。
 かれこれもう九ツ半。頬かむりをしてスタスタ札《ふだ》の辻《つじ》までやって来ると、いきなり暗闇から、
「おい、ちょいと待ちな、どこへ行く」
 紺木綿のパッチに目明草履。ヌッと出て来て、駕籠の前後にひとりずつ。
「おお、駕籠屋か、面を見せろ」
 月あかりがあるのに、いきなり袂龕灯《たもとがんどう》で照しつける。
「どうぞ、ご存分に」
「やかましい。どこへ帰る」
「神田まで帰ります」
「神田のどこだ」
「佐久間町でございます
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