飲めよ唄えよの大騒ぎ、これが八ツ(午前二時)から始まった。
 若太夫が祝儀をのべて一同手をしめ、櫓主の六兵衛が小屋方一同に酌をしてまわる。当祝の儀式がすむと、引きぬきになって大兜《おおかぶと》。お手のものの三味線、太鼓、陣鉦を持ちだし、これに波音まで入って無闇な騒ぎになる。
 七ツ近くに小屋師の勘八というのがよろける足で不浄へおりて行った。
 桟敷の上をつたいながら、月あかりでぼんやり仄明るくなっている飾場のほうを眺めると鯨がしょんぼりと寝ころんでいる。
「やア、寝っころがっていやがるな」
 で、そのまま用を達してまた二階へあがった。
 それから、ちょっと間をおいて、下座三味線をひくお秀という娘が不浄へおりて行った。このときもたしかに鯨はいたのである。それから、またちょっと間をおいて、こんどは木戸番のよだ六がおりて行った。だがこのときはもう鯨はなかった。
 不浄からの帰途、桟敷の嶺《みね》をつたいながらなにげなくヒョイと飾場のほうを見ると、どうしたというのか、鯨は影も形もない。白い砂があるばかり。
 夢を見ているのだと思った。トロンとした眼をひっこすって息をつめて、つくづくともう一度見
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