この身も殺してくれといわんばかり、折よく通りかかりました当小屋の六兵衛どの、哀れと思い買いとりて母子もろとも江戸へ連れかえり、かくはご高覧に供しまする次第。まずは右のため口上。東西。……いよいよこれより鯨の潮ふき、母鯨が添乳《そえち》のさま、つぶさにご覧に入れますところなれど、しょせん田舎生れの鯨ゆえ、江戸の繁華に胆をつぶし、ただもうぐったりしているばかり。それはまた改めてお越しの日にゆずり、ご座興までに鯨のひと声、鯨と言えば、あいよ、と答える。さあ太夫さん、しっかりお頼み申しますよ」
 と、扇子で鯨の頭を突きながら、
「……鯨ちゃんや」
 と、声をかけると、よっぽど遠いところで、あいよ、と答える。
 口上つかいが静々と鯨の背中からおりて行くと、さっき言ったように鯨節の総踊り。これで、おあとと入替え。
 ところで、この鯨が一夜のうちに紛失してしまった。

   鯨の昇天

 深草六兵衛の小屋では、その夜は当祝《あたりいわい》。
 追出しをすましてから、櫓主《やぐらぬし》、若太夫《わかたゆう》、帳元《ちょうもと》、奥役《おくやく》、道具方一統から踊子、口上役、ぜんぶ櫓裏の二階へあつまって
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