つがごろんと転がっているから、見物は夢中になって口々いっせいに、うわアと感嘆の叫び声をあげる。その声で小屋も揺らぐかと思うばかり。
鯨の背中には、先刻のべたような服装の縹緻《きりょう》よしの女口上つかいが桃割にさした簪のビラビラを振りながら、いい声で鯨の口上。
「東西《とうざい》、さて、このたびご覧に供しまする黒鯨。藍絵、錦絵、三枚つづき絵にて御覧のかたはありましょうが、生きた鯨が江戸に持ちこされたはこれが最初。当地は日本四十五州の要所《かなめどころ》。将軍さまのお膝元とて、名だたる見世物も数あるなかに、これこそは真の眼学問《めがくもん》。見ぬは恥、見るは一生の宝。孫子の代までの語り草、つくづくとお眼にとめごろうじませ。頭より尾までの長さは六間半と一尺二寸。胴のまわりは二十六尺六寸、重さは測《はか》って千五百貫。これを譬《たと》えに引きますなら、天王寺の釣鐘の三つ分にあたる。……さて、これより鯨の潮ふきをご覧に入れまするが、まずお聞きくださりませ、この鯨についての哀れな物語。心なき海鯨にもこの愛情。子の愛に惹かされるのは人間ばかりのことではない。焼野《やけの》の雉子《きぎす》、夜《よ
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