のが毎年の例。金蔵の番人まで召しつれていらしたわけではなかろうが、そこにやはり油断がある。腰掛場《こしかけば》へあつまって下げられた酒肴《さけさかな》をいただいていい機嫌になっているあいだに、神田川からくぐって来てゆるんだ土台を突きくずし、七十六箇の千両箱をひとつ残さず綺麗さっぱり持って行ってしまったんです」
「ほほう、なかなかやるな」
「褒めちゃいけません」
「それにしても、あんな重いものを抱えて泳げるわけのものじゃないが」
「なアに、泳いで行ったやつは綱を千両箱に結えつけるだけ。神田川へ船を浮べているほうの組が、こいつをせっせと手ぐり寄せる。わけも造作もありゃアしません」
「なるほど、法にかなっている。それから、どうした」
「ところで、酒井さまのほうもそう抜かってばかりはいなかった。半刻ごとに金蔵の覗き穴から中をのぞいて見ることになっていたもンだから、間もなく盗まれたということがわかった。つまり、運がよかったんです」
「運がいいとはなんのことだ」
「近来になく手配りが早かった。七十六の千両箱を一艘や二艘の小船につめるわけのもンじゃない。これだけのものを一艘の船につむなら、房州の石船にきまったようなもンです。石船なら神田川から上《かみ》にのぼる気づかいはない、くだるほか法がない。なにしろ石船は底が沈んでいるからお茶ノ水からのぼって行けない。そう見こみをつけたもンですから、左衛門橋から上は放っておいて、手をそろえて、ワッと川下だけに張をまわしたンです」
「やって来たか」
「やって来ました。……芝居でつかう張抜き。……日本紙を幾枚も張り重ねて膠《にかわ》とへちまで形をつけ、岩でもなんでもつくるあいつ。……あの伝で張抜きの石を克明に千両箱へひとつずつ被せましてね、遠目ではどう見たって上総の石船。どうしたって見すごしてしまうんです。こんなぐあいにして鵜の目鷹の目の中をゆうゆうと北新堀《きたしんぼり》までくだって来た。……ところでね、阿古十郎さん、わたしだって馬鹿じゃない。北新堀の堀っぷちで腕組みして考えた。石船ならのぼるのが本当でしょう。房州の上総石がお茶を引きはしまいし、石を積んで上からくだって来るというやつはないだろう。こいつは臭いと思ったから、船をとめさせて指で石をはじいて見ると、カチンというところがポコンといった。これで伏鐘組は寂滅《じゃくめつ》。伏鐘の三羽烏といわれる毛抜の音、阿弥陀の六蔵、駿河の為と、この三人はもちろん、船頭に化けて水馴棹《みなれざお》をつかっていた一味十二人、そのままそっくりこっちの網に入りました」
「そんならなんでこんな騒ぎをする」
「いけないことには、伏鐘重三郎が茅場町あたりで上ってしまったんです。足どりを辿ると、そこから八丁堀まで歩いて行って、八丁堀の船清という船宿から猪牙《ちょき》に乗って浜松町一丁目まで行き、佐土原屋という木綿問屋へ入ったということがわかった。それっというンで佐土原屋を押しつつむと、こっちの焦りかたもいけなかったんですが、引っかかったのは店にすわって金巾《かなきん》をいじくっていたほんの下ッ端の五六人。伏鐘と頭株の十二三人は二階から物干に出てチリチリバラバラに逃げてしまいました。これがちょうど四ツころの騒ぎで。……しかし、こっちもひろく手を配ってあるンだし、あそこから田町へかけては堀と橋ばかりのようなところだから、縮めて行ってとうとう芝浦まで追いつめたンです。……月のいい夜だから、あの原っぱへ追いこんだら、もうこっちのもんだと多寡をくくったのがいけなかった。夏草のあいだを走りぬけて行く姿はたしかに見たンですが、さて、海岸までつめて行って見ると影も形もない。小船で逃げたようすもないから、ひょっとすると、海でも泳いでどっかへあがったにちがいないというンで、それで、こうして大捕物をやっているンです」

   大評判《おおひょうばん》

 両国の見世物へ黒鯨《くろくじら》が来た。
 頭から尾までの長さが六間半。胴の周囲が太いところは大人の五ツかかえ。これが江戸のまンなかで絵にあるように潮を噴き、鯨ちゃんや、と言うと、あい、あい、と返事をするという。
 江戸へ鯨が来たのはこれが最初。
 いわんや、生きた実物が泳ぐところを、大人は百文、子供は五十文で見せるという。
「両国へ黒鯨がきたそうでございますな。もうお出かけになりましたか」
「おい、松|兄哥《あにい》、垢離場《こりば》の高物小屋へ仙台の金華山《きんかざん》から鯨が泳ぎついたそうだ」
「お花さん、鯨が見世物に出てるそうですよ。なんでも鯨の赤ちゃんを抱いておっ乳《ぱい》を飲ませるンだって」
「ご隠居さん、絵では見ましたが、正眼《まさめ》に生きて泳ぐところを江戸のまンなかで見られようとは思っていませんでしたよ。年寄は年寄づれ、ひとつ出かけ
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