て見ますかな」
「先生、両国で鯨が泳いでいるそうでごわす。見聞をひろめるは武士の嗜《たしな》みのうちでごわすによって、どうか、お供を仰せつけくださりまっせ」
髪床《かみどこ》、銭湯《せんとう》、碁会所、料理屋、人がふたり寄れば鯨の話。江戸じゅうがこの評判で湧きかえる。われも行けかれも行けと、江戸八百八町がこぞってどっと両国へ押しだす。まるで本門寺のお会式《えしき》のような有様。
高物師の深草《ふかくさ》六兵衛。浅草の奥山で生れて奥山育ち、まだ歳は若いが才走った胆《きも》の太い男。日本じゅうを草鞋がけで走りまわって、いつもどえらい物をかつぎこんで来る。安政二年には長崎から大錦蛇を、三年の夏には駱駝《らくだ》と麒麟《きりん》を持って来た。六兵衛が小屋をかけると、因果物などはばったり客足がとだえてしまうので、又の名を八丁泣かせの六兵衛ともいう。
この六月、金華山へあがった流鯨《ながれくじら》にポンと投げだした五百両。
建てあがり十間の小屋掛をし、鯨が潮を噴いている三間半の大看板をあげる。鼠木戸《ねずみきど》を二カ所につくって三方に桟敷をしつらえ、まンなかの空地へ鯨をころがしてこれを鯨幕で四方からかこい、いよいよ客がつまると一挙にぱッと幕を取りのけ、黒天鵞絨《くろびろうど》に金糸《きんし》銀糸《ぎんし》で鯨波《げいは》を刺繍した裃《かみしも》を着た美しい女の口上つかいが鯨の背に乗って口上をのべる。それがおわると、鳴海絞《なるみしぼ》りの着物に、表黒白裏の鯨帯をしめた女の踊子が十人ばかり出て来て、
※[#歌記号、1−3−28]白いと黒と巻きついたら、鯨帯みるようでしまりがよかろ、セッセセッセ。
と、鯨節にあわせて踊る。これでおしまい。
なにもかも鯨づくめのところがご愛嬌。
鯨はただ白い砂の上にごろんとねっころがっているばかり。潮を噴くわけでもなければ、尾鰭を動かすわけでもない。強いて申そうなら、ちと生臭い。これが張子細工でない証拠。客は百文はらって満足して帰る。
「あなた、両国の黒鯨をごらんになりましたか」
「いいえ、まだでございます。行こう行こうと思っていながら、つい……」
「まア、ぜひ行ってごらんなさい。大したもンですぜ。あなた、鯨が潮を噴きます。あれを見ないじゃ、江戸っ子の名折れになる」
鯨ではないが、尾に鰭がついて、いよいよ以てたいへんな評判。
口あけの初日は、それでも、どうにか納まりをつけたが、二日目は小屋のある垢離場から両国の広場にかけて身動きも出来ぬような混雑。
小屋では鼠木戸の前に竹矢来をゆいまわし、鼠木戸の上の櫓《やぐら》には鳶の者と医者が詰めきっていて怪我人が出来ると、鳶口《とびぐち》で櫓へつるしあげて応急の手当をするという騒ぎ。
小屋の中は外とおとらぬ混雑、三方の桟敷に爪を立たぬほどに鮨押しになった見物が汗を流して幕のとれるのを待っている。四方八方から押されるので汗を拭くことも頸をまわすことも出来ない。顔のむいたほうへ眼玉をすえ、平ったくなって立っている。眼玉も動かせぬというはこのへんの混雑をいうのであるべし。
気が遠くなるような思いで待っているうちに楽屋のほうで波音を聞かせる。大波小波、狂瀾怒濤。小豆をつかって無闇に波の音を立てるもんだから、見物の一同は船酔いするような妙な気持になる。
しょうしょう吐気《はきけ》が来かかったころに、ボーボーと鯨船で吹く竹法螺の音が聞え、それがきっかけで、白黒だんだらの鯨幕がさッと取りはらわれる。
鯨には嘘はない。
まるで五百石船ほどもあろうと思われる黒いのっぺらぼうなやつがごろんと転がっているから、見物は夢中になって口々いっせいに、うわアと感嘆の叫び声をあげる。その声で小屋も揺らぐかと思うばかり。
鯨の背中には、先刻のべたような服装の縹緻《きりょう》よしの女口上つかいが桃割にさした簪のビラビラを振りながら、いい声で鯨の口上。
「東西《とうざい》、さて、このたびご覧に供しまする黒鯨。藍絵、錦絵、三枚つづき絵にて御覧のかたはありましょうが、生きた鯨が江戸に持ちこされたはこれが最初。当地は日本四十五州の要所《かなめどころ》。将軍さまのお膝元とて、名だたる見世物も数あるなかに、これこそは真の眼学問《めがくもん》。見ぬは恥、見るは一生の宝。孫子の代までの語り草、つくづくとお眼にとめごろうじませ。頭より尾までの長さは六間半と一尺二寸。胴のまわりは二十六尺六寸、重さは測《はか》って千五百貫。これを譬《たと》えに引きますなら、天王寺の釣鐘の三つ分にあたる。……さて、これより鯨の潮ふきをご覧に入れまするが、まずお聞きくださりませ、この鯨についての哀れな物語。心なき海鯨にもこの愛情。子の愛に惹かされるのは人間ばかりのことではない。焼野《やけの》の雉子《きぎす》、夜《よ
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