られたら突きとばして逃げましょう。なんと言ったってこっちは駕籠屋の脚。目明しなんぞに負けるもンじゃない」
「ようごわす、やっつけましょう。おいどんもちっと胸糞が悪るうになって来ましたけん」
 馬場先門をさけて日比谷から数寄屋橋。鍛冶橋の袂まで来ると、川に照りかえす月あかりで闇の中にギラリと光った磨十手。
「阿古長さん、おりますよ」
「ええ、知っています。では、やりますよ。ジタバタ暴れたら、当身でも喰わせてください。駕籠に乗せて持って行って護持院ガ原へでも捨ててしまいますから」
「心得申した」
 先棒の土々呂進、拳骨に湿りをくれてノソノソと近づいて行く。
 むこうはこんなことになっているとは知らない。顎をひいて片身寄りになってツイと出て来て、駕籠の棒鼻を押す。
「待て、どこへ行く」
「それはこっちの訊くことだ」
 えッ、と突きだした当身の拳。まっこうに鳩尾《みぞおち》のあたりをやられて、
「うむッ」
 と、のけぞる。
 とど助は、妙な顔をして阿古長のほうへ振りかえって、
「ねえ、阿古長さん、どこかで聞いたような声でごわすな」
「ええ、わたしも今そう思っていたんで」
 とど助はあわてて引きおこして見ると、これがひょろ松。口をアアンとあいて、つまらない顔をして気絶している。とど助は頸へ手をやって、
「これはどうもいかんことになった。阿古長さん、これはひょろ松どんでごわす」
 江戸一の捕物の名人、仙波阿古十郎が北番所で帳面繰りをしているとき、阿古十郎が追いまわしていた神田の御用聞[#「御用聞」は底本では「後用聞」]、ひょろりの松五郎。阿古十郎のおしこみでメキメキと腕をあげ、神田のひょろ松といえば、今では押しも押されもしないいい顔なんだが、こうなってはまるで形なし。
 阿古長も、おどろいて寄って来て、
「なるほど、これはひょろ松。妙な面をして寝ていますね。しかし、こうしてもおけませんから、生きかえらしてやりましょう」
 馴れたもので、引きおこしておいて背骨の中ほどのところをヒョイと拳でおすと、そのとたん、ひょろ松は、ふッと息を吹きかえして、
「おい、どこへ行く」
「なにを言ってるんだ、寝ぼけちゃいけねえ。ひょろ松、おれだ」
 ひょろ松は、キョロリと見あげて、
「おッ、これは、阿古十郎さん、ちょうどいいところで。……お話はゆっくりいたしますが、今あっしに当身を喰わした奴がおりました。畜生、どこへ行きやがった」
 とど助は、頭を掻きかき、
「ひょろ松どん、悪く思ってくださんな。あんたと知ったらやるンじゃなかった。なにしろ、辻、町角で咎められるンで二人とも業を煮やし、こんど出て来たら当身を喰わせて逃げようと、ちょうど相談が出来あがったところへあんたが飛びだして来たようなわけで……」
「いや、ようござんすよ。どうせね、わたしなンざ当身をくらってひっくりかえる芝居の仕出《しだ》しなみ。文句を言えた柄ではありやせんのさ」
 阿古長は、なだめるように、
「まア、そうむくれるな。いわば、もののはずみ。それはそうと、だいぶ手びろく手配りをしているが、いったい、なにがあったんだ」
 ひょろ松は、すぐ機嫌をなおして、
「あなたもご存じでしょう、重三郎の伏鐘組《ふせがねぐみ》。ついこのあいだあんな騒ぎをやっておきながら、またぞろ今夜大きなことをやりやがったんです」
「ほほう、なにをやった」
「神田左衛門橋の酒井さまのお金蔵から四日ほど前、出羽の庄内鶴岡《しょうないつるおか》から馬つきで届いた七万六千両、そのままそっくり持って行ってしまったンで」
「なんでまたそんな箆棒《べらぼう》な金を金蔵へなんぞ入れておいたんだ」
「こんどの外船《がいせん》さわぎで、会津《あいづ》[#ルビの「あいづ」は底本では「あいず」]や川越の諸藩と交代に江戸湾警備を申しつけられ、その諸費用に大至急で国もとから取りよせた金だったんです」
「なるほど。……それで、どんなふうにして持って行った」
「なアに、ごくざっとしたことだったんです。まるで落語の落《さげ》のようなわけなンで。……金付馬が鶴岡を出たのが先月の二十二日。伏鐘は江戸にいてちゃんとそれがわかっていた。金が庄内を出たと聞くと、屋敷の南どなりの金魚屋を居ぬきで買っちまい、金蔵のましたを通して池を神田川まで掘りぬき、まるひと月のあいだ、池のほうから金蔵の土台へせっせと水を流していたんです。これじゃ、どんな堅固な土蔵だってひとっ溜りもありゃアしない。地面の上じゃ、見廻役を二十人三十人とふやして夜の目も寝ずに張り番をしているというンだから、まるで馬鹿にされているようなもの。……もうひとついけないことは、七月二十六日は忠宝《ただとし》さまのお誕生日にあたるので、その祝いを兼ね、八ツ山の浜屋敷へ江戸家ちゅう一同をあつめて二十六夜待の酒宴をなさる
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