ん踏み消したつもりだったろうが、水石《みずいし》というものは、ご存じの通り目の荒いもンだから窪みに血が溜ったところがいくつも残っている。……ねえ、そうだろう。おもんが自分のたらした血を気にして草履で踏みけすはずもなし、そういう苦しい中でわざわざ土扉をしめるようなそんな丁寧なことをするわけもない。これはどうも言いのがれする道はなさそうだ。……ねえ、藤五郎さん、お前さんは名の書いてあったのは土扉の白壁だけだと思っていたろうが、もう一カ所ほかにもあったんだ。……土蔵の額縁《がくぶち》の黒壁《くろかべ》にもやはり同じことが書いてあったんだが、このほうは暗くて気がつかなかった。……おもんもなかなか抜け目がない。白壁のほうだけだとこっそり削られてしまうかも知れないと思ったので、それでそんなことをしておいたンだ。それもただのところじゃない。朝陽があたるとその字が光って見えるように東むきのがわへ書いておいた」
そう言って、懐中から『とうごらう』と赤く滲んだ半紙を取りだし、
「土蔵へ入ろうとして、ヒョイと見ると、黒壁になにか字が書いてあるがはっきりわからない。それで半紙を濡らしてその上へ貼りつけて見る
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