これに工夫をくわえ、型紙をつかって細かい模様を描くことを思いつき、豆描友禅《まめがきゆうぜん》という名で売りだしたが、これが大変に流行し江戸友禅という名でよばれるほどになった。
だんだん繁昌するようになって、神田の店が手狭《てぜま》になってきたので柳橋二丁目のこの角地を買い、張場《はりば》をひろくとって職人も二十人もつかい手びろく商売をやっていた。
親父の代まではひきつづいて繁昌したが、親父の吉兵衛が死んでいまの吉兵衛の代になったころには江戸友禅ももうあかれ、それに、吉兵衛は才覚にとぼしい男で、これぞという新しい工夫もなかったから、だんだん左前《ひだりまえ》になって職人もひとり出、ふたり出、親父の代から住みこんでいる三人ばかりの下染《したぞめ》と家内《かない》のおもんを相手に張りあいのない様子で商売をつづけていた。
吉兵衛の腑甲斐《ふがい》なさばかりではなく、染物屋などにとっては運の悪い時世《じせい》で、天保十三年の水野の改革で着物の新織新型、羽二重、縮緬、友禅染などはいっさい着ることをならんということになったので、いよいよもって上ったりになった。
もうひとついけないことには、
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