顎十郎捕物帳
永代経
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)角地争《かどちあらそ》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)浅草|柳橋《やなぎばし》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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   角地争《かどちあらそ》い

 六月十五日の四ツ半(夜の十一時)ごろ、浅草|柳橋《やなぎばし》二丁目の京屋吉兵衛《きょうやきちべえ》の家から火が出、京屋を全焼して六ツ(十二時)過ぎにようやくおさまった。
 隣家は『大清《だいせい》』というこのごろ売りだしの大きな湯治場《とうじば》料理屋だが、この日はさいわいに風のない晩だったのと水の手が早かったのとで、塀を焼いただけで助かったが、京屋のほうは思いのほかに火のまわりが早かったと見えて、吉兵衛は逃げだす間がなくて焼死してしまった。
 京屋吉兵衛は代々の紺屋《こうや》で、三代前の吉兵衛は京都へ行って友禅染《ゆうぜんぞめ》の染方をならって来てこれに工夫をくわえ、型紙をつかって細かい模様を描くことを思いつき、豆描友禅《まめがきゆうぜん》という名で売りだしたが、これが大変に流行し江戸友禅という名でよばれるほどになった。
 だんだん繁昌するようになって、神田の店が手狭《てぜま》になってきたので柳橋二丁目のこの角地を買い、張場《はりば》をひろくとって職人も二十人もつかい手びろく商売をやっていた。
 親父の代まではひきつづいて繁昌したが、親父の吉兵衛が死んでいまの吉兵衛の代になったころには江戸友禅ももうあかれ、それに、吉兵衛は才覚にとぼしい男で、これぞという新しい工夫もなかったから、だんだん左前《ひだりまえ》になって職人もひとり出、ふたり出、親父の代から住みこんでいる三人ばかりの下染《したぞめ》と家内《かない》のおもんを相手に張りあいのない様子で商売をつづけていた。
 吉兵衛の腑甲斐《ふがい》なさばかりではなく、染物屋などにとっては運の悪い時世《じせい》で、天保十三年の水野の改革で着物の新織新型、羽二重、縮緬、友禅染などはいっさい着ることをならんということになったので、いよいよもって上ったりになった。
 もうひとついけないことには、やはり天保の改革で、深川|辰巳《たつみ》の岡場所が取りはらわれることになり、深川を追われた茶屋、料理屋、船宿などが川を渡ったこちら岸の柳橋にドッと移って来て、にわかに近所に家が建てこむようになった。
 吉兵衛のとなりへ越して来たのは『大清』の藤五郎という男で、もとは浅草奥山の興行師。それまでは深川仲町で小料理屋をやっていたが、そのあいだにだいぶ溜めこんだと見え、ご改革を機会に京屋のとなりの長野屋という旅籠屋《はたごや》を買いとり、その地面へ総檜《そうひのき》二階建のたいそうもない普請をし、茶屋風呂の元祖深川の『平清』の真似をして贅沢な風呂場をこしらえて湯治場料理屋をはじめた。
 台所には石室をつくり、魚河岸から生きた魚を、雑魚場《ざこば》から小魚を仕入れてここへ活《い》かしておく。酒は新川《しんかわ》の鹿島《かしま》や雷門前《かみなりもんまえ》の四方《よも》から取り、椀は宗哲《そうてつ》の真塗《しんぬ》り、向付《むこうづ》けは唐津《からつ》の片口《かたくち》といったふうな凝り方なので、辰巳ふうの新鮮な小魚料理とともに通人の評判になって馬鹿馬鹿しいような繁昌のしかた。夕方の七ツ半にはもう売り切れになるという有様なので、建てたばかりのやつをまた建増ししなければならなくなった。
 ところが『大清』の南は濠《ほり》で建増そうにもひろげようにもどうすることも出来ない。そこで、眼をつけたのが北どなりの京屋の地面。ここを買いつぶしてひろげると、こっちは角店になるわけで、いっそう店の格がつく。
 商売もあんまり繁昌していないふうだし、大したいざこざを言わずに承知するだろうと多寡をくくって話を持ちかけて見ると、それが案外の強腰《つよごし》で、いくら金を積んでもこの地面は譲られぬという挨拶。
 坪二両に立退料三百両というところまで競《せ》りあげたが、それでも頭を竪《たて》には振らない。
 気の小さなくせに偏屈なところがあって、商売がうまくゆかないせいもあろうが、家内のおもんにもめったに笑い顔も見せない。陰気な顔をして一日じゅう藍甕《あいがめ》のまわりでうろうろしている。
 こちらは火が消えたようになっているのに引きかえ、となりは豪勢な繁昌ぶり、これが癇にさわるので、うんと言わないのは、ひとつはそのせいもある。
『大清』の藤五郎のほうでは、いよいよ金ずくではいけないと見てとると、こんどは
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