戦法を変えて巧妙な追出しにかかった。
 京屋のひろい張場の裏の地面を買いとって、そこへ三階建の普請をして母屋と鍵の手につないでしまった。
 今までの南がわだけでもたくさんだったのに、こんなふうに東がわの地ざかいへ見あげるような三階建をつくられたので、東と南をふさがれることになり、京屋の張場はいちにちじゅう陽が当らない。
 紺屋は張場だけで持っているようなものだから、ここへ陽が当らなかったらまるっきり商売にならない。
 折れてくるか怒鳴りこんで来るかと待ちかまえていたが、膿《う》んだとも潰《つぶ》れたとも、なんの音沙汰《おとさた》もない。藤五郎のほうでは拍子ぬけがして呆気《あっけ》にとられる始末だった。
 どうするだろうと様子をうかがっていると、三四人残っていた職人をみな出してしまい、ガランとした大きな家でかみさんとふたりっきりで、むかし流行《はや》った友禅扇《ゆうぜんおうぎ》を細々とつくりはじめた。こんなことまでしても腰をすえようとするそのしかたがあまり依怙地《いこじ》なので、『大清』のほうでも癪にさわったが、さりとてどうすることも出来ない。
 こんなふうに睨みあったまま、一年ばかりたった。
 吉兵衛の家内のおもんは、もとは仲町《なかちょう》の羽織芸者で、吉兵衛と好きあって一緒になった仲だが、なんにしても吉兵衛の甲斐性《かいしょう》ないのと陰気くさいのにすっかり愛想《あいそ》をつかし、急にむかしの生活が恋しくなってきた。
 となりのさんざめきを聴きながら、毎日、愚痴ばかりこぼしていたが、そのうちにとうとう我慢ならなくなったと見えて、ある日、唐突に『大清』のところへ来て、仲働きにでもつかってもらいたいと言い出した。
『大清』もおどろいたが、なんといってもむかし仲町で鳴らしたからだ、老けたといっても取って二十五。愛嬌のある明るい顔立ちで婀娜めいたところも残っている。頼んでも来てもらいたいようなキッパリとした女っぷり。
 藤五郎も喉から手が出るほどだったが、なんといっても他人の家内なんだから、当人がいいなり次第にそれではと言うわけにはゆかない。ご主人の判でもあったらお引きうけしましょうと言って帰すと、おもんははっきりしたもので、判どころではない、吉兵衛の三下《みくだ》り半《はん》を持って引っかえして来て、これならば文句はありますまい、と言った。
 むかし、あれほど入れあげた吉兵衛が、よくまア素直《すなお》にこんなものを書いたもンだと、藤五郎が言うと、おもんは、となりへ仲働きに行くでは、どうせすったもんだでこんなものを書くわけはないから、『大清』の藤五郎さんのところへ後添《のちぞ》いに行くつもりだから、きっぱりと縁を切ってくれと言いますと、吉兵衛は、しばらくわたしの顔を眺めていましたが、お前はどうせ島育ち、死ぬまで野暮ったく暮せるはずはない。いずれそんなことになるのだろうと覚悟していた。『大清』ならば、いわば水に芦《あし》。これが紙問屋へ行くの呉服屋へ行くのと言うんなら決して承知はしないが、水商売ならお前の性にあう。いかにも承知してやろう。それにつけても、お前の持病は癪。調子にのってあまり無理にからだはつかわないように気をつけるがいいと、大変なわかりよう。もっとも、あんな気の弱い男だから、そのくらいのことしか言えるはずはないンですが、女房から別れ話を持ちだされて、こんなメソメソしたことしか言えないのかと思うと、あんまりな意気地のなさに無性に腹が立って、なることなら突きとばしてやりたいような気がしました。『大清』も、あまり馬鹿々々しいので笑い出し、世の中にはずいぶん尻腰《しっこし》のない男もあるもんだ、と言った。
『大清』は三年前に女房をなくしたが、忙しいにまぎれて不自由なことも忘れていたが、おもんの言葉で味な気になり、とうとう瓢箪から駒が出ておもんを後添いにしてしまった。
 この経緯《いきさつ》がパッと町内にひろがったので吉兵衛はいい物笑い。裏どなりの担《かつ》ぎ呉服の長十郎というのが、ひとごとながら腹をたてて、風呂でひょっくりあった時に、お前は阿呆だとばかし思っていたが、女房を寝とられてそんなふうに落着いていられるところなんざアこりゃア大した器量人《きりょうじん》だ、と皮肉を言うと、吉兵衛は、妙な含み笑いをして、俺が落着いていられるのには訳があるンだ。『大清』が奥山にいるときの悪事のしっぽを俺ににぎられているンだから、きいたふうの真似をしても、その実、生涯、俺に頭のあがりっこはねえんだ。それに、おもんだってどんなつもりで進んで『大清』の後添いになったか、その裏の事情がお前なんぞにわかるはずはねえ。なにも知りもしねえくせにきいたふうのことを言うと口が風邪をひくぜ、気をつけろい、と、いつにない巻舌でやり返したということだった。

   
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