三階の窓

 浅草橋の番屋で。
 今日もまた暑くなるのだと見えて、ようやく白んだばかりなのに、燦《きらめ》くような陽の色。
 ずっと陽照りつづきで檐下《のきした》の忍草《しのぶ》までグッタリと首を垂れている。
 北町奉行所のお手先、神田|鍋町《なべちょう》の御用聞、神田屋松五郎。まるで蚊とんぼのように痩せているので、ひょろ松ともいう。
 江戸一の捕物の名人、仙波阿古十郎の下についてタップリと腕をみがき、このごろではもう押しもおされもしないいい顔。
 腕組みをして釣忍《つりしのぶ》を見あげながら、下ッ引の話を聴いていたが、檐から眼を離すと軽くうなずいて、
「いや、よくわかった。……京屋が担ぎ呉服に言ったセリフが気にかかるの。……それで、藤五郎の身もとはもう洗って見たか」
 下ッ引の十吉は、切れッぱなれよくうなずいて、
「藤五郎は左腕に気障な腕守をしていて、いつもこいつを放したことはない。どうせその下には入墨があるってことはわかっている。……ところで、町内でたったひとり、その下を見たやつがあるンです。……左衛門町の棒手振《ぼてふり》の金蔵というのが、藤五郎が生洲《いけす》へ手を入れているところへ行きあわした。どういうはずみだったか、そのとき銀の腕守の留金がはずれて生洲の中へ落っこちた。それで見る気もなく見たンですが、たしかに甲府入墨を焼切った痕のようだったというンです。金蔵はヒョイと見て、こいつはいけないと思ったもンだから、あわててわきをむいてすっ恍けていたンですが、横目で様子をうかがうと、藤五郎は水に濡れたまま大急ぎで、左手を懐へつっこんでしまったンだそうです。……これはつい一刻ほど前に訊きこんだんですが、早いほうがいいと思いましたから、亀のやつをすぐ甲府まで飛ばせてやりました」
「おお、そうか、そりゃア手廻しがよかったな。……訊くことはこれでおおかた訊いてしまったわけだが、吉兵衛というやつは、そのほかになにか人から恨まれるような筋でもねえのか」
「なにしろ、いま申しあげたような意気地なしですから、あまり人づきあいもなく、吉兵衛のほうで恨みを買うようなことはなかったようです。……裏どなりを克明に訊きこんで歩きますと、この半年というものはまるっきり家にひっこんでいて、たまに外へ出ると、菩提寺へ出かけて行って墓の草むしりばかりしている。それが楽しみだというンだから、よッぽど変った奴にちがいないンです」
 裸の膝っ小僧へにぎりっ拳をおいて、
「ときに、お見こみはいかがです。やはり……」
 ひょろ松は、むずかしい顔をして、
「そんなことがわかるもんか。吉兵衛の口だけできめてかかれるもンじゃねえ。強がって与太《よた》っぱちを言ったのかも知れねえからの」
「でも、入墨の痕が……」
「それだって、その棒手振がなにをどう感違いしたのかわかったもんじゃねえ。あわてると仕損じる。まアまア手がたくゆくこッた」
 と言いながら、帷子《かたびら》の襟をしめ、
「じゃ、ひとつとっくり焼跡を見ることにしようか。念を押すまでもねえが、昨夜のままになっているンだろうな」
「そのご念にはおよびません。非常止めにして、火消人足さえ入れないことにしてあります」
「京屋の間取りはわかっているか」
「ここへ図取りがしてございます」
「おお、そうか、よしよし。じゃ、出かけるとしよう」
 浅草橋からは、わずかな道のり。
 手扇で陽ざしをよけながら、二丁目の角まで来ると、その角から河岸っぷちまで止め繩を張りめぐらして番衆が六尺棒を持って立番をしている。
 ひょろ松は、番衆にちょっと声をかけておいて、十吉とふたりで焼跡へ入って行く。
 京屋の塀が五間ばかり焼けのこっただけで、よくまあこう見事に焼けたものだと思われるほど。
 家が古いのに、よく乾き切っていたと見え、梁も桁もかたちがなくまっ黒に焼けきった焼棒杭《やけぼっくい》と灰の上に屋根伏せなりに瓦がドカリと落ちつんで、すこし谷のように窪んだところにまっ黒に焦げた吉兵衛の死骸が俯伏《うつぶ》せになっている。
 ひょろ松は、一間ほど離れたところに突っ立ってジロジロと眺めていたが、十吉のほうへ振りかえると、だしぬけに、
「おい、十吉、この死骸はどうしたんだ」
「どうした、とおっしゃると」
「誰か手をつけたのか、掘出したのか」
 十吉は、首をふって、
「そんなことはしませんです、昨晩からこうなっているンで」
「それは、確かなことなンだろうな」
「確かも確かも。番所で油を売っていまして、ジャンと鳴ると火消改と一緒にまっさきに飛んで来たのはこのあっしなんで。……それから焼落ちて水手《みずて》が引きあげるまで、ずっとここを離れなかったンです」
「すると、お前が見たときから、このありよう[#「ありよう」に傍点]は変っていないわけだな」
「へえ、
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