面《あにいづら》をした駕籠役の帳面つけのような男。突っ立ったまま横柄な口調で、
「ご用ってのは、いったいなんです。柳川鍋の中へ鑷《けぬき》でも入っていましたか」
 ナメたようなことをいう。
 とど助は、落着きはらって、
「いや、そんなものは見あたらなかった。わざわざ呼び立てたが、用事というのは、ほんの、ちょっとしたことだ」
「なんでえ、こいつは。嫌に持ってまわったことを言いやがる。こっちは忙しいんだから、あっさりやってもらいてえね」
「おお、そうか。それならば、あっさり言おう。……実は、銭がない」
「なんだとッ」
「そんな恐い顔をするな。銭というものはな、あるときもあれば、ないときもある、また、あるところからないところへ常にとどこおりなく流通するのが常道なのであって、一所に長く停滞《ていたい》するのは経済の道に外れている。この理屈は『貨幣職能論《かへいしょくのうろん》』という本にちゃんと書いてある。こういう理屈によって、わしのところに、いま銭が停滞しておらん」
「ひどくしちめんどくせえことを言いやがるもンだから、ごたごたして訳がわからなくなっちまいやがった。なにが、どうしたんだと」

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