しましょうか」
「ああ、まいろう」

   どじょう鯰《なまず》

 六本木の多度津《たどつ》京極の屋敷の門前で、またひと刻。
 とっぷりと暮れて六ツ半ともなれば、参詣の人影も絶え、ついで、屋敷の大扉はとざされてしまったので、あたりはひっそり閑《かん》。
 このへんは寺や屋敷だけの町で、黒門に出格子窓。暮れると人通りもない場所で、聞えるものは空ッ風と犬の遠吠えばかり。
 アコ長は、凍えた手を提灯の火にかざしながら、
「とど助さん、どうも、いけないことになりました。愚痴を言ったって始まらない、こんな日はケチがついているんだから、きょうは諦《あきら》めて、このまま戻ることにしましょう」
 とど助は、むむ、と腕を組んだ。
「いよいよいけないとなれば、わしも愚痴は言わんが、家へもどっても夕食をする当のないのは弱った」
「それが、愚痴というもんですよ」
「こういう霜腹気《しもばらけ》の日に、泥鰌《どじょう》の丸煮《まるに》かなんかで、熱燗をキュッとひっかけたら、さぞ美味《びみ》なことであろう」
「贅沢をいっちゃいけませんよ。こんなときに食いもんの話をするのは殺生ですよ」
「背に腹はかえられんな」
「なにを言ってるんです。背に腹どころじゃない、わたしなんざ、腹の皮が背中にくっつきそうだ」
「であるからして、思い切ってやろう」
「急に血相を変えて、なにをやるというんです。辻斬《つじぎり》なんぞ、いやですぜ」
「いかに渇しても、辻斬なんぞはせん。一杯飲もう」
「銭がなくて、どうして酒が飲めるもんですか」
「そのくらいのことは、わしも存じておるが、法をもってすれば、飲めんことはない。後はわしが引きうけたから、我善坊《がぜんぼう》の泥鰌屋へ行こう」
「でも、あのへんは伊勢|駕《かご》の繩張だから、下手なことをすると、ぶったたかれますぜ」
「なあに、かまわん、かまわん。わしがうまい工合にやる。心配せんとついて来まっせ」
 空駕籠をかついで仲町《なかまち》から飯倉片町《いいぐらかたまち》のほうへやって来ると、おかめ団子《だんご》のすじかいに、紺暖簾《こんのれん》に『どぜう汁』と白抜にした、名代の泥鰌屋。駕籠舁、中間、陸尺などが大勢に寄って来てたいへんに繁昌する。
 泥鰌鍋のほかに駕籠宿もやっているので、奥まった半座敷には、駕籠舁の若い者がいつも十人二十人とごろっちゃらしている。
 軒下へ駕
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