も戻りもありやしません。けさからずっとあぶれでケチがついたから、これから家へ帰って寝ッちまおうと思っていたところなんです」
「そんならば、お気の毒ですね」
「えッ、気の毒とは、なんのことです」
「だいぶ、遠ございますから」
「遠いたって、まさか越後までいらっしゃるというんじゃねえでしょう。いったい、行先はどちらです」
「牛込矢来の少しさき」
「すると、酒井さまのお屋敷のへんですか」
「いいえ、その前を通って、もう少し行きます」
「おう、そりゃア大変だ。すると、護国寺のへんですか」
「そこを通って、もう少し……」
アコ長、へこたれて、
「そう小刻みにしないで、はっきり言ってくださいよ。いったい、どこなんです」
「実は豊島《としま》ガ岡《おか》までまいりたいのです」
「豊島ガ岡っていうと、あのへんは墓や森ばかりで人家などないところ。それに、これから行くと、どっちみち夜中になってしまうが、あんなところに、どんな用がおあんなさるンです」
「お駄賃《だちん》は、ウンとはずみますけど」
「駄賃のほうは、きまりだけいただけば結構ですが、……どうもねえ、あんな森ばかりあるところへ……」
「お嫌でしょうか」
「へッへ、お召しくださるのはかたじけないのですが、どうも、行きつけないところなもンですから。……ねえ、とど助さん、どうしよう、このお客さんは、豊島ガ岡までいらっしゃりたいとおっしゃるんだが……」
とど助は、仏頂面《ぶっちょうづら》で、
「わしは満腹で気が重い。あんなところまで行ったら、もどりは夜明けになってしまう。商売|冥利《みょうり》につきるようだが、きょうはひとつ、お断りすることにしようじゃないか」
「わたしもそのほうが賛成だ。……お客さん、只今、お聞きのようなわけですから、どうか、べつな駕籠へ乗っておくんなさい」
「そう言わないで、行ってください。一両あげますから」
「えッ、豊島ガ岡まで行くと、一両くださるっていうンですか」
「はい、前払いで差しあげます」
「おい、とど助さん、どうしよう」
「そういうことなら、話がちょっと違って来た。一両とは聞きずてならん。ものははずみだ、乗せてつかわッせ」
「じゃ、お客さんまいりましょう」
「たしかに連れて行ってくれますか」
「そんな念を押さないだって、行くといった以上たしかにお供します」
眼のキョロリとした小柄な男は、なにか言い憎
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