わからん奴だな。きょうは銭がないから出来たらそのうちに持って来ると言っておるのだ」
 兄哥面は腹を立てて、
「すると、なんだな、手めえらふたりは喰い逃げをしようてンだな」
「逃げはせん、ちゃんとここにおる」
「やかましいやい。手めえらに節季振舞《せっきぶるま》いをするためにこうして暖簾をかけてるンじゃねえ。飲み喰いしただけの銭をおいて行け」
「だから、それがないと言っているのだ」
「この野郎ッ、悪く落着いてやがる。見りゃア駕籠舁の風体だが、ここを伊勢駕の繩張りと知ってそんな頬桁をたたきやがるとは、なかなか見あげた度胸だ。なんといったって、銭をおかねえうちは帰さねえから、そう思え」
「おお、そうか。それほどまでに言うのならやむを得ん。……察しの通り、いかにもわしは駕籠屋だが、駕籠舁というものは身体ひとつが資本。この身体で、日に、少なくとも一分は稼ぐ。してみれば、わしの身体は金のなる木も同然。飲み食いをしたかわりに、この大切な資本を暫時お前のところに質におくから預ってもらいたい。……ただし、念のために言っておくが、わしの身体を預った上は、日に一分ずつわしに払わねばならん。どうか、それを承知で預ってもらいたい」
 兄哥は、納得しない顔で、
「手前のような大きな図体《ずうたい》のやつを預ったうえに、日に一分ずつ払うのだと?……そんな割の悪い話はねえ」
「おお、その理屈がわかるというのは、見あげたものだ、天晴れ、天晴れ。わしを預れば、たしかにお前のほうが大損をする。わしをこのまま帰せば、わずか五百五十文のメリですむ。……どうだ、どっちにする」
 兄哥は、妙な顔をして、むむ、と唸っていたが、
「みすみす損をするのがわかってるのに手前などを預るわけにはゆかねえ。飲み食いしたやつは負けてやるから、さっさと帰ってくれ」
「いや、話がわかればそれでいい。お前も大損をせずにすんで結構だった。しからば、われわれはこれで帰る、いいな」
「勝手にしやがれ、疫病神《やくびょうがみ》め!」
 おもてへ出ると、顎十郎は大笑い、
「雷さん、なかなか大したお腕前ですな。『貨幣職能論』などをかつぎ出して煙《けむ》に巻いたところなんざ、天晴れなお手のうち、見なおしましたよ」
 とど助の土々呂進は、やあ、と額に手をやって、
「褒めてくれては困る。ああいうテをいつも用いるように思われては、いささか赤面いたす」

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