んなことはともかく、ま、おひとつ。……こんな出雲舞のお酌ではどうせお気に入りますまいけど……」
 と、ひどく色気のある眼つきで斜《しゃ》に顎十郎の顔を見あげる。顎十郎は恐悦しながら盃を取りあげ、
「金蔵の番人には、チト行きすぎたお款待《かんたい》。生れつき遠慮ッ気のないほうだから、会釈なしにやっつけますが、美禄《びろく》に美人に美肴《びこう》と、こう三拍子そろったんじゃ、いかに臆面のない手前でも顔まけをいたします。……おっとっと、散ります、散ります」
 大有頂天の大はしゃぎ。太平楽をならべながら頻《しき》りに注《つ》がせる。
 ところでこの小波、注ぎっぷりもいいが、受けっぷりもいい。どうぞ、ほんの少し、と言いながらいくつでも受ける。ひどく調子がいいもんだから、いきおい弾みがついて、だいぶ陽気な光景になる。下町からあがった腰元とみえ、酔うにつれて、小さな声で小唄なんか歌う。ところで、顎十郎のほうも、もとをただせばそうとうな道楽者なんだから、すっかりウマが合う。引きぬきになって、
「それ、ご返盃ッ」
「ちょうだいしますわ」
 てなわけで、差しつおさえつやっていたが、そのうちに小波が、ちょっと、といって足もとをひょろつかせながら出て行ったが、それっきりいつまでたっても戻って来ない。
 酒も切れ、肴も荒してしまった。そのうちに出て来るだろうぐらいに考えて、なすこともなくぼんやりしていたが、いっこうに帰って来るようすもない。どうにも手持無沙汰でやり切れなくなり、うるさく手をたたきながら、
「おいおい、小波さん、引っこんでしまった切りじゃしょうがねえ。化粧なおしなんざ後でもいいから、ともかく、酒を持って来てくれ。……酒がねえぞウ。おーい、酒、酒!」
 大りきみに力んで、テッパイに怒鳴り散らしているところへ、渡り廊下のほうに、二三人の足音がドサドサと近づいて来た。
 瓦灯口の襖をサラリと引きあけて、ヌッと顔を現したのは、思いきや、これが顎十郎の仇役。互いに一位を争う、これも捕物の名人、南町奉行所の控与力藤波友衛。後へつづく二三人は、巻羽織《まきばおり》やら磨十手《みがきじゅって》。髪をおどろに振りみだした三太夫ていの男をひとり中にはさんで、ズカズカと茶室の中へ入りこんで来た。
 顎十郎は酔眼|朦朧《もうろう》。春霞のかかったような、とろんとした眼つきで藤波の顔を見あげながら、素頓狂《すっとんきょう》な声、
「いよウ、藤波さん、これは、これは、珍客の御入来。やはり、あなたもポチポチの組ですか。……そんなむずかしい顔をして突っ立っていないで、まア一杯おやんなさい。間もなく座持ちのいい乙姫さまが立ち現れて来ます。まアどうか、お平らに」
 藤波は、痩せた権高《けんだか》な顔を蒼白ませ、立ったままジロジロと顎十郎の顔を眺めていたが、やがて噛んで吐き出すように、
「ねえ、仙波さん、あなたがぬすっとの用心棒をつとめていたとは、さすがのこの藤波も、きょうのきょうまで気がつかなかった」
 顎十郎は、トホンとした顔つきで、
「手前がもそっと[#「もそっと」に傍点]飲めばよかった、たア、いったいなんのことです」
「とぼけちゃいけねえ、なにを言ってやがる。こんなところでとぐろを巻いていて、夜番の眼をそらし、裏でこっそり金蔵を破らせるなんてえのは、たしかにうまい趣向。貴様らしい思いつきだ。今にして思いあわせると、以前ちょっと甲府で役についていたことがあるというだけで、その後、四五年、どこでなにをしていたものやら誰も知っているものがねえ。……縁につながる叔父の森川庄兵衛のところへフラリと舞いもどって、なにくわぬ顔で北町奉行所の帳面繰り。……江戸一と言われた捕物の名人が、ひと皮|剥《は》ぎゃア、金蔵破りの大ぬすっとの同類とは、こいつアよっぽど振《ふる》ってる。……おい、仙波、永らくすっ恍けていやがったが、今度こそは年貢《ねんぐ》の納めどき、昔の誼《よし》みで、この藤波友衛が曳いて行ってやる。観念してお繩をいただけ」
 顎十郎は、両手で泳ぎだし、
「じょ、じょ、冗談じゃない。……それは、なにかの間違い」
 三太夫ていの老人は、御用聞をかきわけて前へ進みだし、血走った眼で顎十郎を睨みつけながら、
「そちらは間違いであろうと、わしの眼には間違いはない。ここな大泥棒めが。……殿様の褥に大あぐらをひっかき、酒を持って来いの、小鉢だのと、女賊を顎で追いつかい、しなだれるやら、色眼をつかうやら、恐れげもなく殿様の御定紋入りの羽織など着くさって、おれがここに控えておれば、金蔵破りのほうはいっさい心配はいらぬと大仰《おおぎょう》な頬桁《ほおげた》をたたいておったのを、わしはたしかにこの耳で聞いたぞ。これでも言いぬけする言葉があると申すか、不敵なやつめ」
 顎十郎は、さすがに酔いもさめてし
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