お調べは、いつなりとお心のまま。しかし、一刻の後にさしせまったこの危急は、いま、時を逃せばとりかえしのつかぬゆゆしい大事が出来《しゅったい》いたします。わたくしといたしましては、これが最後の御奉公。お取調べを小半日《こはんにち》御猶予くだされ、お願いもうす品々をお差しいれくださらば、それによって犯人の見こみをつけ、この不祥事を、かならず未然にふせいでお眼にかけます。……非違《ひい》は非違として、手前がいささか推理の法に通じていることは、あなたもたぶんご存じのはず。……手前が申すことを、なにとぞ御信用くださって、ただいま申しあげた次第、枉《ま》げてお聴きずみ願わしく存じます」
藤波は、キッと眉を寄せてなにか考えていたが、油断のない顔つきで、
「もとより、どんな奸策をめぐらそうと、おめおめ貴様を逃がすような藤波じゃないから、そのほうの懸念は少しもない。事と次第によっては殿様にお願いして、半日の猶予をいたすことも出来よう。して、御高位とは、いったいどなたのことだ」
顎十郎は、
「恐れながら」
と言いながら、藤波のそばにすり寄って、自分の手のひらへ指で丸を書いて見せた。藤波は見るより恐悚《きょうしょう》の色を浮かべ、
「おッ、それは大事!」
あわただしく膝をついて、
「して、望みの品というのはどんな物だ」
「香木五十八種はもとより、市中にて売出しおります髪油《かみあぶら》、匂油《においあぶら》いっさい。ひとまとめにしてお差しいれを願います。ただいまも申しあげましたように、危急存亡《ききゅうそんぼう》の場合、なにとぞ速急《そっきゅう》のお取りはからいを……」
「いかにも、承知いたした」
言いすてて、藤波は脱兎のように揚屋から飛びだして行った。
顎十郎は、その後を見おくりながらニヤリと笑い、
「こうしておけばまず大丈夫。それにしても、あの気ちがい野郎はなにを勘違いして泡をくってスッ飛んで行きやがったんだろう。おれは、お前の肝ッ玉はこんなに小さいと指で丸を書いて見せただけなんだが、あの頓馬《とんま》のことだから、丸を書いたのを、御本丸のことなのだと早合点したのかも知れない。こいつア、大笑いだ」
それからちょうど半刻。さすが五百人もの輩下をつかう藤波のすることだけあって、大広蓋に香道具やら香木、煉香《ねりこう》、髪油にいたるまで、ひとつも洩れなく山ほどに積みあげて持ち
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