》もいきゃアしねえ。……といっても、今までに辿りついたところでは、証拠といっても至って心細いもんだが、他《ほか》になにひとつ手がかりはねえんだから、こいつに獅噛《しが》みついて、どうでも突きつめるより他はねえ」
むっくり起きあがると大あぐらをかき、長い顎のさきを抓《つま》み抓み、
「数寄屋で香を焚いていたものなら、茶室に入ったときにもう匂っていなければならぬはずだ。ところで、あの香りがホンノリおれの鼻に来たのは、どう考えても、あの腰元面が入って来てからのことだった。と、すると、あの匂いは、あいつの身についていた匂いだと思う他はない。おれの鼻は馬鹿じゃない。ワンワンほどには行かぬけれど、自慢じゃないが、これでそうとう、ものを嗅ぎわけるほうだから、この感じには間違いはあるまい。ところで、この件は、おれにとっちゃ天の助け。なにしろ、ああいう変った匂いだから、なんとか藤波をだまくらかして、お調べを半日ほど引きのばさせ、五十八香木を取りよせて、ここでいちいち聴きわけたら、なんとか筋道がつくかも知れない。……しかし、考えてみりゃア、こんどぐらい馬鹿な目にあったことはない。食い意地の張ってるのは生れつきだが、うっかり食い気を出したばっかりに、おれともあろうものがマンマとはめられてカラだらしのねえ有様。まア、しかし、おれの弱点をついて、洒落た手紙でおれを釣りよせるなんてえのは、敵ながら天晴れ。手ごわいおれを金蔵破りのぼくよけ[#「ぼくよけ」に傍点]にして、ついでにしくじらせてしまおうという一石二鳥。じつに恐れ入ったもんだよ。まアまア、見てるがいい。たとえ骨が舎利《しゃり》になっても、この仕返しはしねえじゃおかねえから」
と言ってるところへ、牢格子のむこうへ二三人の足音。
「噂をすれば影。ひとつ殊勝《しゅしょう》らしく持ちかけて、こっちの思いなりにさせてやろう」
急に坐りなおして、殊勝らしく首を垂れているところへ、海老錠をはずし、ドンと潜り格子をついて入って来たのが、お待ちかねの藤波友衛。形どおりに片身をひらきながら、
「仙波、お調べだ、出ろ」
顎十郎は、ハッ、と頭をさげ、
「ただいま、仕度いたしております。……それはそれとして、ここに、さる御高位の方の一命にかかわるような大変な急事がございます。この通り、逃げ隠れするところもない揚屋の中へとりこめられてるのですから、わたしの
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