こんで来た。
顎十郎は、うやうやしく受けとって、
「これは、早速の御配慮、まことにかたじけのうございます。……では、これから早速に香聴きにかかりますが、これはいかようにも静思を要する仕事。一刻ほどのあいだ、この界隈で物音をお立てなさらぬよう、静謐《せいひつ》にお願いいたします」
「いかにも承知した。このあたりにひと気をなくしておくから、あいすんだら手を拍つように」
「かしこまりました」
それで藤波は出て行く。
後にはひとり、顎十郎。……今度こそ本式に端坐しなおすと、急にひきしまった顔で香炉《こうろ》を引きよせ、埋火《うずみび》の上に銀葉《ぎんよう》をのせ、香づつみをひらいて香を正しく銀葉のまんなかにのせ、香炉を右にとり、左に持ちかえ、右手でその上をおおって型通りに香を聴きはじめた。
顎十郎の眉のあたりに、なんともいえぬ静かな色が流れる。半眼にして、ひとつ聴きおわると、また次の香づつみをひらく。こんなふうにして次々と五十八種の香木を聴いて行ったが、たずねる匂いはその中にはない。さすがに、苛立ったようなようすになって、髪油のほうに移ったが、三十二三種の髪油、匂油の中にも、やはり求める匂いはない。煉香、匂袋《においぶくろ》と試した。すると最後に取りあげたのは、つい、この四五日前、芝|神明《しんめい》のセムシ喜左衛門の店で売りだした法朗西《ふらんす》渡りのオーデコロンをもとにして作った『菊香水』という匂水。顎十郎が、蝋づけにした栓をぬいて、壜の口を鼻の下へ持っていったと思うと、たちまち、眼をかがやかして、
「おッ、これだッ」
と、大声で叫んだ。
顎十郎の濡衣は乾きました。なんでもないことだったが、このちょっとした思いつきが、抜きさしのならぬ危急から顎十郎を救ってくれた。女賊の小波がうっかり身につけていたこの匂いが動きのとれぬ証拠になったのである。
知ってか知らいでか、売りだしたばかりのこの『菊香水』を買ったのは、女ではほんの二三人。これもやはり天命か、女賊の小波は、セムシ喜左衛門のすぐ裏に住んでいて、一二年来の顔なじみのお顧客《とくい》だった。
一日おいてそのあくる日、顎十郎は書状をもってお役御免をねがい出た。書状には……性来下司にして、口腹の欲に迷い、ウマウマ嵌められました段、まことに面目次第もこれなく、……と書いてあった。本気のようでもあり、また、恍け
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