おいおい、ここに筵が足らねえぞ……縁台はこっちじゃあねえだ。むこうだむこうだ」
 などと、汗みずくになってやっている。すこし骨細だが、実直そうないい壮者《わかもの》。
 奥では、接待の麦茶わかし、子供にくばる菓子づつみや強飯《こわめし》やら。
 このほうは、女中頭のお年が一生懸命に采配をふるっている。しめりかえったこの屋敷に一時に春がきたよう。だれもかれも、浮き浮きした笑い声をあげて走りまわる。
 まだ日も暮れぬうちから、晴着をひっぱった老幼男女が、煮〆の重詰や地酒をさげてくりこんでくる。またたく間に、五十畳の広座敷はもちろん、筵敷の上までぎっしりと詰って、身動きもならない有様。気の早いのは、もう重箱をあけて盃のやりとり。早くやってくらっせえ、などとだみ声をあげている。
 顎十郎も誘われて座敷の隅にいる。
 そうこうするうちに、短い秋の日はとっぷりと暮れ、星がキラキラと瞬きだす。
 さア、もう始まるべえ、と、ざわめき立っているうちに、作平や世話役が座敷の灯を消して歩く。
 やがて、正面の幕に写しだされたのが、吉例の『福助』。
 わあッ、というどよめきのうちに、楽屋からは写し絵の口上、声
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