》が、このとき始めて声をあげた。
「待て待て、船をつけろ」
「えッ」
「船をつけろと言ってる」
「喜三次ぬし、それは、いけねえ」
「いけねえことは、よく知っている。さっきからつくづく見ていたが、だいぶようすが変っている。あの船になにかあったのにちげえねえが、そうと知っては見すごしても行かれめえ。ちょっと、ようすを見に行こう。声をかけるだけのことだから、たいして手間もくうめえ。ともかく、船を寄せてみろ」
波のりぶねというぐあいにぼんやりと漂っている遠島船の腹へこちらの舳を突っかける。
喜三次が舳に立って、
「お船手《ふなて》、お船手。……おうい、船の衆」
と、声をかけたが、なんの返事もない。
「おウイ、船頭衆、お楫……だれもいねえのか」
伊豆|田浦岬《たうらざき》の地かたから二十五六里。その沖に浮いてる船にだれもいないかは、チトおかしい。が、そうとでも言うほかはない。帆をダラリとさげたまま人ッ子ひとり姿が見えず、しんとしずまりかえっている。
「いよいよ妙だ。この船には人ッ子ひとりいねえとみえるぜ。……いってえ、どうしたというんだろう」
餌取の平吉、あまり物怖《ものおじ》のしないほうだから、船胴《ふなどう》から腰をあげて、
「おれが、ちょっくら、ようすを見てくるべえ」
「そうだな、見て来てくれろ」
「遠島船め、手間をかけやがる」
舳のむこうづらに垂れさがっている錨綱《いかりづな》をつたってスルスルとのぼって行き、身軽に前口《まえぐち》へ飛びこんだが、それっきりいつまでたっても出て来ない。
鰹船のほうでは辛抱づよく待っていたが、いっこう平吉が姿を見せないので、しょうしょう薄気味悪くなってきた。
「どうしやがった、平吉めら」
「※[#「舟+夾」、185−下−2]《はざま》へでも落ちやがったか」
「それにしても、もう小半刻になる。だれかようすを見に行け」
むこうっ気の強い漁師どもも、さすがにわれと進みだすものもない。船頭の喜三次、
「じゃあ、おれが行く」
と、立ちかかったところへ、平吉が遠島船の棚縁《たなべり》から青い顔を出した。
「猫の子一疋いやしねえ。……喜三次ぬし、ちょっとあがって来てくれ……なにか、……えれえことがあったらしいんだ、この船でよ」
「平吉ぬし、そりゃアほんとうか」
「なんで、おれが嘘を。ほんとうもなにも……」
「よし、いま行く」
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