きりんな船じゃねえか」
「菱垣《ひがき》船か」
「菱垣にしちゃア小さすぎる。それに、菱垣の船印《ふなじるし》がねえや」
「灘《なだ》の酒廻船《さけかいせん》か」
「新酒船《しんしゅぶね》は八月のことでえ」
「土佐の百尋石船《ひゃくひろいしぶね》か」
「石船にしちゃア船腹《ふなばら》が軽すぎらい」
「それにしても、なにをしてやがるンだろう。こんなところで沖もやいする気でもあンめえ。時化《しけ》でもくらいやがって舵を折ったか」
 十五日の朝から夕方まで子亥《ねい》のかなり強い風が吹いたが、日が暮れるとばったりとおさまって、それからずっと凪つづきだった。
 舳を突っかけながら、あらためてつくづくと眺めると、帆綱《ほづな》の元場《もとば》にも水先頭場《みずさきがしらば》にも、綱の締場《しめば》にも、まるきり人影というものがない。たるみきった帆綱がゆらゆらと風に揺れているばかり。
「船頭めら、くらい酔って寝くたばっていやがるのか。それとも、死に絶えたか」
 艫に突っ立って、手びさしをして、さっきからジッとその船を眺めていた楫取《かじとり》の八右衛門、
「やい、櫓杭をまわせ、あの船に寄っちゃなンねえ」
「へッ、精霊船《しょうろぶね》か」
「もそっと悪りいやい、あの船印を見ろ」
 あからひく朝日がのぼりかけ、むこうの船の大帆がパッと紅《くれない》に染まる。むきの加減で矢帆に隠れて見えなかったが、こんどはまっこうに見える。……艫の一番かんぬきのところに立っている白黒二両引《しろくろにりょうびき》の大吹流《おおふきなが》し。――遠島船の船印だ。
「やア、遠島船だ」
「畜生、縁起でもねえ」
「寄るんじゃねえ、寄るんじゃねえ」
「平吉めら、どこに眼のくり玉をくっつけていやがる。あの船印が見えなかったのか」
「そういう手前らだって……」
「やい、船をまわせ」
「返すんだ、返すんだ」
 今まではずんでいたのが、急に気を悪くしてあわてて舳をまわす。
 鰹船の禁物《きんもつ》は第一は遠島船。第二が讃岐《さぬき》の藍玉船《あいだまぶね》。遠島船にあうと鰹の群来《くき》が沖へ流れるといって、たいへんに嫌う。藍のほうはむかしから魚には禁物。魚にあたったら染藍《そめあい》を煎《せん》じて飲めというくらいのもの。このふたつは精霊船よりも恐い。
 むさんに櫓を切って船を返そうとすると、船頭の喜三次《きさんじ
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