顎十郎捕物帳
遠島船
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)初鰹《はつがつお》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伊豆|田浦岬《たうらざき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「舟+夾」、185−下−2]
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   初鰹《はつがつお》

「船でい」
「おお、船だ船だ」
「鰹をやれ、鰹をやれ」
「運のいい畜生だ」
「おうい、和次郎ぬし、船だぞい、おも舵だ」
 文久二年四月十七日、伊豆国賀茂郡松崎村《いずのくにかものこおりまつざきむら》の鰹船が焼津《やいづ》の沖で初鰹を釣り、船梁《ふなばり》もたわむほどになって相模灘《さがみなだ》を突っ走る。八挺櫓《はっちょうろ》で飛ばしてくる江戸の鰹買船《かつおかいぶね》に三崎の沖あたりで行きあうつもり。
 ちょうど石廊岬《いろうざき》の端をかわし、右に神子元島《みこもとじま》の地方《じかた》が見えかかるころ、未申《ひつじさる》の沖あいに一艘の船影が浮かびあがって来た。
 海面は仄白《ほのじろ》くなったが、まだ陽はのぼらない、七ツすこし前。
 舳《みよし》で、朝食の支度をしていた餌取《えとり》の平吉がまっさきに見つけた。
 鰹の帰り船が沖で船にあうと、最初に行きあった船に初鰹をなげこんでやるのがきまりになっている。鰹船の祝儀《しゅうぎ》といって、沖で祝儀をつけてやることが出来れば、ことしの鰹は大漁だと縁起をいわう。
 櫓杭《ろぐい》に四挺櫓をたて、グイと船のほうへ舳をまわす。
「やアイ、船え――」
「おう、その船、初鰹を祝ってやるべえ」
 払暁《ふつぎょう》の薄い朱鷺色《ときいろ》を背にうけて、ゆったりとたゆたっているその船。
 妙に船脚《ふなあし》のあがった五百石で、大帆柱《おおほばしら》の帆さきと艫《とも》に油灯《ゆとう》の赤い灯がついている。
 海の上はすっかり明るくなっているのに、油灯がつけっぱなしになっている。そればかりではない。大帆も矢帆《やほ》も小矢帆《こやほ》も、かんぬきがけにダラリと力なく垂れさがって、舵《かじ》も水先《みずさき》もないように波のまにまに漂《ただよ》っている。
 海面は青だたみを敷いたようないい凪《なぎ》なので……。
「なんでえ、妙ち
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