の上なしの言葉がたきで、またごくごくの仲よしでもある。
 花世は、父と顎十郎のあいだへ、わざと割りこむようにして坐って、あどけなく首をかしげながら、庄兵衛に、
「もう出来ましたかえ」
 といいながら、文机のほうを覗きこむ。
 庄兵衛は、またしてもあわてふためいて、いそがしく目顔で知らせながら、
「出来たとは、なにが。……わしは知らぬぞ」
 花世は、怨《えん》じるような顔で、
「おや、いやな。……そら、御尊像のことでござります」
 顎十郎は、そっくりかえってふアふアと笑いだし、
「いやはや、こいつは大笑いだ。……あなたはうまく隠しおおせたつもりだったでしょうが、種はさっきからあがっているんですぜ。……版木《はんぎ》だけは本でかくしても、膝の木くずはごまかせない。あなたが御法度《ごはっと》の大黒尊像《だいこくそんぞう》を版木で起していたことは、さっきからちゃんと見ぬいているんです。……頭かくして尻かくさず、叔父上、年のせいで、あなたもだいぶ耄碌《もうろく》なすったね。……ほら、証拠はこの通り」
 急に手をのばして文机の本をはねのけると、その下からおおかた彫りあがった大黒尊像の版木があらわれた。
 これは、例の幸運の手紙とおなじもので、美濃紙《みのがみ》八枚どり大に刷った大黒天像を二枚ひとつつみにし、しかるべき有縁無縁《うえんむえん》の善男善女《ぜんなんぜんにょ》の家にひそかに頒布《はんぷ》するもので、添書《そえがき》に、『一枚は箪笥の抽斗《ひきだし》におさめ、一枚はこれを版に起して百軒に配布すべし』と書いてあるのを常とする。
 これをおこのうものは福徳家内に満ち、これをおこなわぬものはかならず災疫をうけるというので、これを受けとったものは、おのがじし百枚ずつを版木に起して配布するので、わずか三月とたたぬうちに、大黒尊像は日本の津々浦々にまで行きわたるような大勢力となった。幕府は大いに狼狽し、文政二年の末ごろ禁令を出して取締ったが、またふた月ほど前から、尊像頒布が急にたいへんな勢いで流行しはじめた。
 顎十郎は、文机のうえから版木をとりあげて、ニヤニヤ笑いながら、
「たとい、むかしでも法度は法度。……それを取締るべき与力筆頭のあなたが、こんなことをなさるなどは、ちと受けとれぬ話ですね」
 庄兵衛は、てれくさそうに額に手をやり、
「悪いやつに、悪いものを見られてしまったわい。……見あらわされたうえはいさぎよく白状するが、なにもこれは迷信などを信じてやったわけではない。おまえも知ってのとおり、花世は甲子《きのえね》の年の生れ、大黒様の申《もう》し子《ご》のようなやつだから、それで、こうして、いくぶんの義理をたてておる。これだけは見のがしてくれ」
 顎十郎は、聞くでもなく聞かぬでもないような様子で版木をひねくりまわしていたが、なにを認めたものか、ほう、と声をあげ、
「こりゃア妙だ。……叔父上、この尊像はすこし変っていますぜ。……いままでの大黒尊像は、俵を踏んまえて、その下に鼠が二匹いる。……だれでも知っている通り、それだけのものだが、これ、ごらんなさい、この尊像には、こんなわけのわからぬものがついている」
 見ると、なるほど、尊像の空白に、お灸のあとのような、妙なものがついている。
 それは、こんなふうなものだった。
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   弥太堀《やたぼり》

 小網町《こあみちょう》の船宿《ふなやど》でわかれたきり、その後、三日になるが杳《よう》として顎十郎の消息が知れない。
 弓町の住居にもかえらないし、庄兵衛の屋敷にもよりつかない。また、れいのごとく、中間部屋にでもとぐろを巻いているのかと思って、脇坂や上杉《うえすぎ》の部屋をのぞきこんで見たが、姿が見えぬ。
 そうこうしているうちに、南番所のほうでは、いよいよ追いこみにかかったらしく、弥太堀《やたぼり》の近くにおびただしい人数を張りこませ、目ざましいまでに色めきわたっている様子である。
 ひょろ松は気がきでない。手にものもつかぬようにじれ切っているところへ、ちょうど四日目の朝になって、顎十郎が泰平な顔でブラリとやって来た。
 顎十郎の声をききつけるより早く、ひょろ松は奥から泳ぎだし、喰ってかかるような調子で、
「阿古十郎さん、ひどく気をもませるじゃありませんか。……いったい、今日までどこに雲がくれしていたんです」
 顎十郎は、懐手をしてのっそりと突っ立ったまま、
「じつは、長崎のほうに友達ができてな、ちょっとそこまで行って来た」
 ひょろ松は、ムッとして、
「冗談なんぞをいってる場合じゃありません。……こっちは、たいへんなことになってるんです。しっかりしてもらわなく
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