まったのか。……あっしは十手をあずかってから、もう十年の上になりますが、まだ、おぼえもねえような滅法《めっぽう》な話なので、いろいろ頭をひねってみましたが、かいもく見当がつきません。……心配というのはそれだけではない。じつは、南番所じゃアなにかはっきりと当りがついたらしく、同心の藤波友衛が、せんぶりの千太を追いまわして、しきりにあたふたしております。……むこうが追いこみにかかっているというのに、こっちは、あっけらかんと口をあいて眺めているというんじゃア、月番の北の番所としちゃ、じつにどうも遣瀬《やるせ》のねえ話なんで。……それで、森川の旦那さまも躍起《やっき》となっていらっしゃるんですが、いまいったようなわけでどうにもしょうがない。はっきりした見こみはつかずとも、せめて、方角ぐらいはついてねえことにゃア、また、南のやつらの笑いものにされなくちゃアなりません」
「そうだとありゃア、いかにも物笑いだ」
ひょろ松は、情なそうな顔をして、
「そう、澄ましていられちゃ困ります。……なにしろ、あなたは、日がな毎日、犯例帳の赦帳《ゆるしちょう》のと、番所の古帳面ばかり、ひっくりかえしていられる酔狂な方だから、前例のあることなら多分ご存じだろう。……もし、そうだったら、それは、どういう次第で、どういうおさまりになったものか、ひとつうまく聴き出してこい、という旦那さまのお言いつけなんで。……それで、こうして、馴れねえとりもちなんぞをいたした次第なんでございます」
といって、膝をすすめ、
「ねえ、阿古十郎さん、……古いころ、……たとえば、鎌倉時代にでも、こんな前例《ためし》がありましたろうか」
顎十郎、空嘯《うそ》ぶいて、
「はて、いっこうに聴かねえの」
「こりゃア情ない。……前例はねえとしても、では、なにかあなたのお見こみがございましょうか」
「お見こみなら、少々ある」
ひょろ松は思わず乗りだして、
「へえ、それは」
「間もなく、御府内で、どえらいことが起る」
大黒《だいこく》
大久保彦左衛門以来という、江戸ではもう名物のひとつになっている名代《なだい》の強情おやじ、しょんべん組の森川庄兵衛が、居間の文机のうえにうつむきこんで、なにかしらん、わき目もふらずこつこつやっているところへ、れいの通り案内も乞わずにヒョロリと入ってきたのが顎十郎。
懐手をしたまま閾《しきい》ぎわに突っ立って、
「いよう」
と、ひともなげな挨拶をすると、遠慮もなくズカズカと入りこんで来て、叔父のよこへ大あぐらをかく。
庄兵衛は、顎十郎の声を聞きつけると、どうしたのか、ひどくあわてふためいて、あたふたとありあう本で文机のうえのものをおおい隠すと、三白眼をつりあげ、大きな眼鏡ごしに顎十郎の顔をにらみあげながら、
「いくらいっても聞きわけがない、叔父にむかって、いよう、などという挨拶があるか。……たしなまッせえ、この下司《げす》ものめが」
顎十郎は、空吹く風と聞きながし、
「ときに叔父上、あなたもめっきりお年をとりましたな、そうしてションボリと文机のまえに坐っているところなんざ、まさに大津絵《おおつえ》の鬼の念仏。……いつまでもじゃじゃばっていられずと、はやくお役御免を願って、初孫《ういまご》の顔を見る算段《さんだん》でもなさい」
庄兵衛は、膝を掻きむしって、
「またしても、またしても、言わしておけば野放図《のほうず》もない。毎朝三百棒をふるこのおれを、老いぼれとはけしからぬ。……これこのおれの、どこが老いぼれだ」
まるで、こんがら童子が痙攣《ひきつけ》たような顔をしていきり立つのを、顎十郎は相手にもせず、
「まあまあ、そうご立腹をなさるな。……それはそうと、いまさっき、なにかしきりにコソコソやっていられたが、贋金《にせがね》でもつくっていたのですか」
庄兵衛はうろたえて、
「ぷッ、冗談にもほどがある。……出まかせをいうのも、ほどほどにしておけ」
「てまえが入って来ると、あわてて本でかくしなさったようだが、いったい、なにをしていらしたんです」
庄兵衛は、いよいよもって狼狽し、からだで文机をかくすようにしながら、
「ええ、なにもしておらぬともうすに」
「そんなら、その本をとってお見せなさい」
といいながら、文机のほうへ手をのばしかける。
庄兵衛は、やっきとなって、顎十郎の手をはらいのけながら、
「これ、なにをする……横着《おうちゃく》なまねをするな……寄ってはならんともうすに」
「いいからお見せなさい」
「ならん、ならん」
揉みあっているところへ、庄兵衛の秘蔵ッ娘《こ》の花世が入ってきた。
ことし十九になる惚々するような縹緻《きりょう》よしで、さすが血すじだけあって、こだわりのない、さっぱりとした、いい気だてを持っている。顎十郎とは、こ
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