顎十郎捕物帳
咸臨丸受取
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)川風《かわかぜ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)砲十二|門《もん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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川風《かわかぜ》
「阿古十郎さん、まア、もうひとつ召しあがれ」
「ごうせいに、とりもつの」
「へへへ」
「陽気のせいじゃあるまいな」
「あいかわらず、悪い口だ。……いくらあっしが下戸《げこ》でも、船遊びぐらいはいたします。……これがあたしの持病でね。……まア、いっぱい召しあがれ」
川面《かわも》から映《て》りかえす陽のひかりが屋根舟の障子にチラチラとうごく。
むこうは水神《すいじん》の森。波止めの杭に柳がなびき、ちょうど上汐《あげしお》で、川風にうっすら潮の香《か》がまじる。
顎十郎のとりもちをしているのは、神田の御用聞のひょろ松。その名のとおり、麹室《こうじむろ》のもやし豆のようにどこもかしこもひょろりと間のびがしていて、浅黒い蔭干面《かげぼしづら》が、鷺のようにいやにひょろ長い首のうえにのっかっている。長いことにかけては、顎十郎の顎と好一対《こういっつい》。
酒と名のつくものなら、金鯛《さけくらい》にも酔う男。それが、屋根舟で、むやみと斡旋《とりもち》をしようというのだから、これには、なにかいわくがありそう。
矢つぎばやの追っかけ突っかけで、顎十郎、さすがにだいぶ御酩酊のようす。
ぐにゃりと首を泳がせて、
「ときに、ひょろ松、お前、今年、いくつになる」
「へえ、三十……に、近いんで」
「お前の三十にちかいも久しいもんだ。……本当の年は、いくつだ」
「三十四でございます」
「それなら、四十に近い」
「いえ、三十のほうに近い」
「ふふふ、小咄だの。……それはいいが、その年をさげて、こんな芸しかできないとは、お前もよっぽどばちあたりだ」
へたにとぼけた顔で、
「それは、なんのことでございます」
「ひょろ松、相手を見てものを言え」
顎十郎、長い顎のさきを撫でながらニヤニヤ笑って、
「おい、お見とおしだよ」
「………」
「お前、叔父貴に授《さず》けられて来たろう」
「なにをでございます」
「強情だの。……それそれ、へたにとぼけたお前の顔に、頼まれて来た、と書いてある。……おれの口から頼みます願いますでは、天下の与力筆頭の沽券《こけん》にかかわる。……あの通り、口いやしいやつだから、酒でもたらふく飲ませ、喰いものをあてがって、うまく騙《だま》してなんとか智慧をかりてくれ。酔わせせえすりゃ、いい気になって、なんでもペラペラ喋るやつだ。……どうだ、ひょろ松」
「まったく、その通り……」
つい、うっかり口走って、へへへと髷節《まげぶし》へ手をやり、
「てめえで言ってしまっちゃアしょうがねえ。いままで、なんのために苦労をしたんだかわかりゃアしない……こいつア、大しくじり」
「はなっから、間のぬけた話だ。……下戸のお前が、柳橋へ行こうの、屋根舟にしようのと、水をむけるからしてあんまり智慧がなさすぎる。……ふふふ、まア、そうしょげるな。これでも、おれは気がいいからの、むげに、お前の顔をつぶすようなまねはしない。とりもちにめんじて、ある智慧なら貸してやる」
ひょろ松、ピョコリと頭をさげ、
「さすがは、阿古十郎さん」
顎十郎は、船舷《ふなべり》へだらしなく頬杖をついて、
「おだてるな。……それで、今度はどんなことだ」
へえ、といって、急に顔をひきしめ、
「それがどうも、すこし、桁外《けたはず》れな話なんで。……あなたは、ひちくどいことはお嫌いだから、手っとりばやくもうしますが……じつは、このごろ御府内で、妙なことがはじまっているんでございます」
顎十郎、のんびりとした声で、
「ふむ、妙とは、どう妙」
「それが、どうも、捕えどころのねえ話なんで……。どうしたものか、この月はなっから江戸の市中が水を打ったようにひっそりと静まりかえっているんでございます。……どんなことがあったって、日に十や二十はかかしたことのねえ小犯行《こわり》が、これでもう十日ほどのあいだ、ただのひとつもございません。……掏摸《とうべえ》もなければ、ゆすり、空巣狙《しろたび》、万引《にざえもん》、詐欺《あんま》……なにひとつない。御番所も詰所も、まるっきし御用がなくなって、鮒が餌づきをするように、あくびばかりしているんでございます」
「なるほど、そりゃあ珍だの」
ひょろ松はうなずいて、
「江戸中の悪いやつらが、ひとり残らず時疫《じやみ》にでもかかって死に絶えてし
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