ありませんか。……昼日なか、狐につままれたわけでもありますめえね。……いってえ、どうしたというわけなんです」
顎十郎は、依然として無言のまま、先に立って弥太堀から横丁へ折れこみ、大きな料理屋のすじむかいの水茶屋《みずぢゃや》[#ルビの「みずぢゃや」は底本では「みずじゃや」]の中へ入ってゆく。
ひょろ松はしょうことなしにそのあとについてゆくと、顎十郎は、ずっと奥まった葭簀《よしず》のかげの床几にかけていて、ひょろ松がそのそばへひきならんで坐るよりはやく、囁くような声で、
「このへんに番所があるか……駕籠屋があるか」
いつもの顎十郎と様子がちがう。
ひょろ松は、けおされたようになって、思わずこれも小声になり、
「あの火の見の下が辻番で、駕籠屋も、つい近所にございます」
顎十郎は鼻孔《はな》をほじりながら、うっそりと小屋のうちそとを見まわしてから、
「……なア、ひょろ松、御府内の悪者《わる》は、その後まだ鳴りをひそめているだろう、それにちがいなかろう」
「へえ、その通りでございます」
「お前に、まだ、そのわけがわからねえか」
「………」
「それは、鳴りをひそめているんじゃない、江戸にいないのだ」
「えッ」
「それだけの人数の悪者《わる》が、いったい、なんのためにみな江戸を離れていったのだろう。……なにか思いあたることがないか」
「どうも……」
「こないだ、大川の屋根舟で、間もなく途方《とほう》もないことがもちあがるといったのは嘘じゃない。やはり、おれの見こみどおりだった。……みぜんにふせぐことが出来れば、それに越したことはないが、さもなければ、たいへんな幕府の損害になる……」
いよいよ、ささやくような声になって、
「お前も、多少は聞いているだろうが、こんど幕府が外国から買い入れた、例の咸臨丸、これは、和蘭陀《おらんだ》のかんてるく[#「かんてるく」に傍点]というところで建造された軍艦で、木造蒸気内車《もくぞうじょうきうちぐるま》、砲十二|門《もん》、馬力《ばりき》百、二百十|噸《とん》というすばらしいやつだ。それが、はるばる廻航《かいこう》されてきて、来月の中ごろ、長崎で受けとることになっている。この代価が十万|弗《どる》。日本の金にして二十五万両。……この金が馬の背につまれて長崎までくだる。……どうだ、ひょろ松」
ひょろ松は、あッ、とのけぞって、
「それだッ……すると、江戸の悪者どもは……」
まっ蒼になって、ブルブル慄えていたが、急に狂気したように、両手で顎十郎の腕を鷲づかみにすると、
「そ、それで……その金は?」
「きのう、江戸を出たはずだ」
「げッ、……それじゃア、もう間にあいませんか」
「なんともいえないが、やるだけやってみるより、しょうがあるまい。……ところで、ひょろ松、ちょっとむかいの料理屋へ行って、きょう三十人ばかりで楊弓結改《ようきゅうけっかい》の会をやりたいのだが、席があるかときいて来い」
ひょろ松は無我夢中のていで水茶屋から出ていったが、間もなくもどってきて、
「きょうは、一月寺《ぼろんじ》の一節切《ひとよぎり》の会があるので、夕方まで売切れになっているということでございます」
顎十郎はうなずいて、
「うむ、そうか、それでいいのだ」
ひょろ松は、席にもいたたまれぬように焦だって、
「それはそうと、阿古十郎さん、こんな水茶屋なんぞでのっそりしていていいのですか。……あっしはもう……」
立ちかかるのを、顎十郎は腕をとってひきとめ、
「まア、あわてるな。……すこし、落着いてむかいの料理屋の看板を見ろ。なんと書いてある」
ひょろ松は、葭簀のあいだから料理屋のほうをすかしながら、口のなかで、
「大黒屋……、だ、い、こ、く、や……」
と呟いていたが、急に横手をうって、
「あッ、わかりましたッ。……すると、あの縁起まわしの大黒絵の刷物は、絵ときで場所を知らせる廻状《かいじょう》のようなものだったんで……」
「いかにもその通り……それで、きょうは、いったい、何日で、そして、なんの日だ」
「きょうは、九月四日……」
指を折って、
「朔日《ついたち》が酉《とり》でしたから、……酉、戌《いぬ》、亥《い》……、あっ、子《ね》の四日……。それで、鼠が四匹か……。どっちみち、あの碁石をならべたようなのが、手がかりのもとになったのでしょうが、いったい、あれは、なんでありました」
顎十郎は、顎を撫でながら、
「おれも、あれには一ぷくふいた。……なんの符牒《ふちょう》なのかいっこうにわからない。……すこし嫌気がさして、ころがっていた船宿を出て、小田原町の通りをあてもなくブラブラ歩いていると、すぐそばの露地の奥で、尺八《しゃくはち》の師匠が、れ、れ、つ、ろー、ろ、とやっている。……なんの気もなく、二三町ゆきすぎたとこ
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