く朝日がのぼったばかり。糀町《こうじまち》の心法寺原《しんぽうじはら》に、いちめんに霜柱が立っている。
 永田町よりの地ざかいに心法寺という寺があって、その塀のそばに、天鵞絨巻網代黒《びろうどまきあじろぐろ》の供乗物《とものりもの》が三つ、さんざんに打ちこわされてころがっている。簾はちぎれ、底板はぬけ、長棒は折れ、ほとんど形のないまでにこなごなになっている。
 藤波が、定廻りからのしらせで、下ッ引をひとり連れて、霜柱を踏みくだきながら、息せき切って原の中へ入って行くと、黒羽二重の素袷を着流しにした、ぬうとした男が、こちらへ背中をむけ、駕籠のそばへしゃがみこんでいる。
 はッとして、立ちどまって眺めると、案にたがわず、北町奉行所のケチな帳面繰、顎十郎こと仙波阿古十郎。
 まるで、匂いでも嗅ぐかのように、駕籠に顔をおっつけていたが、そのうちに、のっそり立ちあがると、日和《ひより》でも見るように、うしろ手を組んで、ぼんやりと空を見あげている。
 藤波はキッと顔をひきしめると、足ばやに顎十郎のそばに進んでゆき悪叮嚀《わるていねい》な口調で、
「おお、仙波さん。そこでなにをしておいでです。鳶でも飛んでいますか」
 顎十郎は、あん、と曖昧な音響を発しながら藤波のほうへふりかえると、例のとほんとした顔つきで、
「これは、これは、たいへんにお早がけから……」
 と言っておいて、ぼてぼてとした冬瓜なりの顎を撫でながら、
「いや、鳶などはおりません。……実はね、駕籠などがふってくる陽気でもないがと思って、いま、つくづくと空を眺めていたところです。……ごろうじ。どうもてえへんな壊れかたじゃありませんか。まるで、木《こ》ッ葉《ぱ》微塵《みじん》といったていたらく。……天から落ちてきたのでもなければ、こんなひどい壊れかたをするはずがない。……するてえと、これは、やっぱり神隠し。……かわいや、十三人のきりょうよしは、からす天狗にひっさらわれて、御嶽山へでも持って行かれ、今ごろは、さんざんに口説《くど》かれて困っているころでしょう」
 と、油紙に火がついたようにまくし立てながら、足もとに落ちていた鳥の尾羽《おば》のようなものを拾いあげて藤波のほうへ差しだし、
「ほら、この通り。その証拠に、ここに天狗の羽根が落ちています」
 藤波は額に癇の筋を立てながら、噛んではき出すような口調で、
「仙波さん、相変らずはぐらかすねえ。そりゃア、五位鷺《ごいさぎ》の抜け羽でしょう。あなたには、それが天狗の羽根に見えますか」
 顎十郎は尾羽をうちかえして、とみこうみしていたが、やア、といって頭を掻き、
「こりゃあ、大しくじり。……いかにも、天狗の羽根にしてはすこし安手です。……しかし、それはそれとして、手前には、やはり、神隠しとしか解釈がつきませんな。……だいいち、これだけの乱暴を働いたとすれば、このへんの草がそうとう踏みにじられていなければならぬはずなのに、そういう形跡がない。足跡らしいものは多少みあたるが、草が倒れていないのはどうしたわけでしょう」
 藤波は油断のない面《つら》つきで、切長なひと皮眼のすみからジロジロと顎十郎を眺めながら、
「仙波さん、まア、そうとぼけないでものこってすよ。いくらひどく踏みにじられても、ひと晩はげしい霜にあったら、草がシャッキリおっ立つぐらいのこたア、あなたがご存じないはずはない。つまらぬ洒落はそのくらいにして、そろそろ代替《だいがわ》りにしていただこうじゃないか。神隠しだというお見こみなら、なにもこんなところで、マゴマゴしているこたアない。御嶽山《おやま》へ出かけて行って、大天狗《だいてんぐ》を召捕られたらどうです、あなたとはいい取組みでしょう」
 顎十郎は、大まじめにうなずき、
「いや、おだてないでください。それほどにうぬぼれてもいません。召捕るというわけにはゆきますまいが、掛けあうくらいのことは出来ましょう。……では、そろそろ出かけますかナ」
 こんな人を喰った男もすくない。本来ならば、とうの昔に癇癪を起してスッパ抜いているところだが、いつぞやの出あいで、相手の底知れぬ手練を知っているから、歯がみをしながら虫をころしていると、顎十郎はジンジンばしょりをして、両袖を突っぱり、
「や、ごめん」
 と、軽く言って、ちょうど質ながれの烏天狗のような恰好でヒョロヒョロと歩いて行ってしまった。
 ひきそっていた千太の一の乾分、だんまりの朝太郎《あさたろう》、めったに顔色も変えることがないのに、くやしがって、
「ち、畜生ッ。いつもの旦那のようでもねえ、ああまで、コケにされて……」
 と、足ずりする。藤波は見かえりもせず、ずッと乗物のそばへよると底板をかえしたり、網代を撫でたりして、テキパキとあらためはじめた。
 朝太郎は、ぬけ目のないようすで藤波のあとについて歩きながら、
「馬鹿なことをおたずねするようですが、実のところ、やはり神隠しなんでございましょうか」
 藤波は、フフンと鼻で笑って、
「神隠しなら、いっそ始末がいいが、そんな生やさしいこっちゃねえ、攫《さら》われたのだ」
「でも、どの木戸も出ちゃアおりません」
「なにを。……十三の乗物は、ちゃんと木戸を通ったはずだ。現に、ここにこうして投げだしてあるじゃねえか」
「そりゃアそうですが、番所には、それぞれ十人からのお勤番が控えております。いったい、どうしてその眼をくらましたのでしょう」
「たったひとつ方法がある。……木戸うちにいないとすれば、木戸から出たと思うほかはない。いってえ、どうしてぬけ出したのだろう。……ちょっと頭をひねると、すぐわかった。実にどうも、わけのねえことなのだ。……ゆうべは御影供《ごめいく》の当日で、ほうぼうの寺に御開帳があったから、ちょうどあの刻限には、外糀《そとこうじ》町口のあたりは、ご代参がえりの女乗物でごったがえしたはず。御正門ちかくで紀州様の行列を追いぬきながら、十三の乗物を自分らの行列にくりこむくらいのことは雑作もない」
 朝太郎は感にたえたように膝をうって、
「なるほど。そう聞きゃア、こりゃアわけもねえ」
「那智衆をご所望になっていた、いずれかのお家中が、かねてこの日をめあてにし、あらかじめ紀州さまの陸尺と手はずをしてあったのだ。……間もなく千太がやって来るが、あの刻限に赤坂青山の木戸を通った家中が知れると、神隠しのぬしは、雑作もなくわかる」
 ちょうど、そこへ千太がやって来た。草相撲《くさずもう》の前頭《まえがしら》のような恰幅《かっぷく》のいいからだをゆすりながら近づいて来て、この場のようすを眺めて、
「うわア、こりゃア、どえれえことをやらかしたもんですねえ」
 藤波はうなずいて、
「なんではあれ、紀州様のご定紋のついたお乗物をたたっこわすなんてえのは、すこし無茶すぎる。これが表むきになったら、なまやさしいこっちゃアおさまらねえ。……それはそうと、そっちの調べはどうだった」
 千太は小腰をかがめて、
「へえ、やはり、お見こみ通りでございました。……紀州様とほぼ同時刻に外糀町口をとおった女乗物は、赤坂表町の松平|安芸守《あきのかみ》さま、それに、外桜田の鍋島さまと毛利さま、このお三家でございます。……松平さまのほうは丸山浄心寺《まるやまじょうしんじ》のおかえり、毛利さまは早稲田《わせだ》、馬場下《ばばした》の願満祖師《がんまんそし》のおかえり、鍋島さまのほうは大塚本伝寺《おおつかほんでんじ》のおかえりでございました」
「外糀町口の木戸をとおったときのそれぞれのお乗物のかずは?」
「それが、つごうの悪いことに、お三家がお通りになったのが、六つぎりぎりというところ。最後の鍋島さまがお通りになったところで、太鼓が鳴って木戸がしまり、ちょうどそこへ紀州様のお乗物がついたというわけで、したがって、お三家中の乗物の数はわかりかねるんでございます」
「うむ、よろしい。……では、木戸を出たときの乗物のかずは?」
「松平さまは赤坂見附の木戸をお通りになって、これが二十六挺。毛利さまは喰違御門をお通りになって、これが同じく二十六挺。鍋島さまは赤坂御門の桝形で、これが二十四挺でございました」
「よしよし。……それで、市村座のほうはどうだった。役者で駈落ちしたようなものはいなかったか」
「ご承知のように、ゆうべは、三座の新狂言名題読《しんきょうげんなだいよ》みの日で、猿若町は上方《かみがた》役者の乗りこみで、夜っぴてひっくりかえるような騒ぎ、市村座でも、太夫元から役者、狂言方、下廻りまで全部三階にあつまって寄始《よりはじ》めの酒宴《さかもり》をしておりましたが、ひとりも欠けたものがございませんでした。……変った聞きこみといえば、十五日のおもよおしのため、紀州様から髪、衣裳、下座一式のご注文があったというくらいのものでございましたが、それとは別にちょっと妙なことを小耳にはさんだんでございます」
「ふむ?」
 千太は喜色満面のていで、
「それが、実にどうも馬鹿馬鹿しいような話なんで……」
「なんだ、早く言え」
「れいの、お祖師《そし》さまのお声というのを、はっきりと聞いたものが八九人いるんでございます」
「それが、どうした」
「だれが聞いたところでも、それが、ひどい佐賀なまりだったというんです。……ねえ、旦那、お祖師さまのご生国《しょうこく》は安房《あわ》の小湊《こみなと》、佐賀なまりのお祖師さまなんざ、ちと、おかしいでしょう」
 藤波は、眼つきを鋭くして、なにか考えこんでいたが、とつぜん、ふ、ふ、ふと驕慢に笑いだし、
「これで、すっかり、あたりがついた。……なるほど、あのしゃらく[#「しゃらく」に傍点]な閑叟侯《かんそうこう》ならこのくらいのことはなさりかねない。……お前らも知ってるだろう。斎藤派無念流の斎藤弥九郎《さいとうやくろう》、……閑叟侯が手に品をかえてせっせとお遣物《つかわしもの》をおくって、ようやくお抱えになるところまで漕ぎつけたところを、紀州さまが横あいからだんまりでさらってしまわれたことがある。……つまり、こんどはその仕返しをなさったのだ」
 と言って、日ざしを眺め、
「おお、もう辰刻《いつつ》か。あまりゆっくりかまえてもいられねえ。おれは、これからむこうへ乗りこんで行って、じゅうぶんに調べあげ、くわしく復命書《おこたえがき》をつくっておくから、朝太郎、お前、夜ふけになったら、御用部屋の窓下へ受けとりに来い。そして、夜があけたらすぐに池田さまのお屋敷におとどけするんだ、いいか。……それから、千太、おめえは加役のお役宅へ行ってそれとなくわけを話し、おれが朝の辰刻《いつつどき》になっても帰らなかったら、組頭に様子を見させによこしてくれ。……気の荒い佐賀っぽうの領地へ乗りこんで行くんだ。どうせ無事じゃアすむめえ」

   駕籠盗人《かごぬすびと》

「ねえ、組役《くみやく》、あ、あまり部屋で、見かけねえ顔だが、いままで、ど、どこにいらしたんで……」
「あっしは西の丸の新組におりやした。……へっへ、ちっとばかりしくじりをやらかしましてね。ま、よろしくお引きまわしをねげえますよ。……さア、もうひとつ」
「す、すみませんねえ。……ひッ、……もう、じゅうぶんに頂戴いたしましたよ。……ひッ、……いけねえ、そうついだって飲めません」
「なにも、そう遠慮なさることアねえ、顔つなぎだ。……もうひとつ、威勢よくやってくんねえ」
 琴平町《ことひらちょう》の天神横丁《てんじんよこちょう》。油障子に瓢箪と駒をかいて、鉄拐屋《てつかいや》と読ませる居酒屋。
 ぐずぐずになって、いまにもつぶれそうに身体を泳がしているのは薄あばたのあるお徒士《かち》か門番かというようすの男。酒をついでいるのが、藤波友衛。
 中剃《なかぞり》をひろくあけたつっこみにゆい、陸尺半纒にひやめし草履。どう見ても腹っからのお陸尺。
「ねえ、お門番。きのう、ご代参があったようだが、ありゃ、いってえ、いくつ出たんで」
「ご代参って、どちらのご代参」
「ご代参なら、大塚の本伝寺にきまってる」
「ひッ、……よく知ってら
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