くすうよう》、陀羅尼品《だらにぼん》の読経《どきょう》がすんで、これから献香花《けんこうか》の式に移ろうとするとき、下座《しもざ》にいたひわ[#「ひわ」に傍点]という腰元が、とつぜん、あッと小さな叫び声をあげて顔を伏せてしまった。となりに坐っていたお伽坊主《とぎぼうず》の朝顔という腰元が、そっとたずねると、いま、お祖師《そし》様が憐れむような眼つきで、じッとわたしの顔をごらんになった、と妙なことを口走った。
 一行が市村座へついたのは巳刻《よつ》(午前十時)すぎで、茶屋からすぐ桟敷へ通ると、簾《みす》をおろして無礼講《ぶれいこう》の酒宴がはじまった。
 狂言は黙阿弥《もくあみ》の『小袖曽我薊色縫《こそでそがあざみのいろぬい》』で、小団次《こだんじ》の清心《せいしん》に粂三郎《くめさぶろう》の十六夜《いざよい》、三十郎《さんじゅうろう》の大寺正兵衛《おおでらしょうべえ》という評判の顔あわせ。
 湧きかえるような掛け声をあびながら小団次が強請《ゆすり》の啖呵《たんか》を切っていると、桟敷の下で喧嘩がはじまった。足を踏んだ、踏まぬという埓もない酔漢同士のつかみあいだったが、このてんやわんやの騒ぎの最中に、どこからともなく、こんな呼び声がきこえてきた。
「帰りが、こわいぞ。帰りがこわいぞ」
 海洞《ほらあな》に潮がさしこんでくるような異様に朧《おぼ》ろな声で、はっきりと三度までくりかえした。
 なにしろ、そんな騒ぎのおりからでもあるし、大して気にするものもなかったが、先刻《せんこく》のひわ[#「ひわ」に傍点]という腰元だけは、これを聞くと、また血の気をなくして、
「あ、あれは、お祖師様のお声です。……ああ、怖い、おそろしい」
 と、耳をふさいで突っぷしてしまった。
 なにをつまらぬ、で、そのときは笑いとばしたが、このことが、なんとなく不気味に朝顔のこころに残った。
「ひわ[#「ひわ」に傍点]と申すものは、日ごろから癇のつよい娘でございまして、よく痙攣《ひきつ》けたり倒れたりいたします。たぶん、夢でも見てそんなことを口走ったのでございましょうが、またいっぽうから考えますと、日ごろの信心を愛《め》でられ、お祖師様がひわ[#「ひわ」に傍点]の口を通して、ご示験《じげん》くださったのではありますまいか。埓もないことのようですが、ひとこともうし添えます」
 という大井の申立てだった。
前へ 次へ
全16ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング