まだひと通りもある宵の口に、十三人もいっぺんに神隠しにあうなどというのは前代未聞のことで、ただただ、奇ッ怪というよりほかはなかったのである。

   南と北

 甲斐守がふいと顔をあげる。
 老中阿部伊勢にみとめられ、小十人頭《こじゅうにんがしら》から町奉行に抜擢《ばってき》された秀才。まだ、三十そこそこの若さである。蒼白い端正な面《おもて》を藤波のほうにふりむけると、
「言うまでもないことだが、古くは絵島生島《えしまいくしま》事件。近くは中山法華経寺《なかやまほけきょうじ》事件というためしもある。……さなきだに、とかくの世評のある折柄、御三家の奥女中が芝居見物の帰途、十三人もそろって駈落ちしたなどと取沙汰されるようなことにでもなれば、徳川家《おかみ》御一門の威信にかかわるゆゆしい問題。……さような風評の立たぬうちに、いかなる手段《てだて》を講じても事件の本末をたずね、十三人の所在をあきらかにせねばならぬ」
 といって、言葉を切り、
「たんに、世評のことばかりではない。実は、このことは、まだ茂承《もちつぐ》さまには内密にしてある。……存じてもおろうが、紀州侯は、諸事ご厳格な方であらせられるから、このようなことがお耳に入ったら、お忿怒《いかり》もさぞかし、とても、二人や三人の腹切りではあいすむまい。家事不行届のかどをもって、大勢の怪我人が出来よう。阿部さまも、この点をことごとく御心痛。大勢のいのちにかかわることであるから、たとえ草の根をわけても、明日いっぱいに探しだし、お催しのある十五日の朝までに、かならず十三人を局にもどしおくようにと命ぜられた。……それにつけて……」
 と言いかけて、チラと美しい眉のあたりを翳《かげ》らせ、
「この月は、当南町奉行所の月番。……それにもかかわらず、北町奉行所の播磨守へも同様のお沙汰があったというのは、いかにも心外だが、かような緊急を要する事件であって見れば、それもまた止むをえぬ処置かも知れぬ。……ことに、この節は、われわれの番所は失策が多く、とかく北におさえられてばかりいる。……どんなお取りあつかいを受けても、まず……一言もない」
 甲斐守は、膝に手をおいて、虫の音に聴きいるような眼つきをしていたが、急に激《げき》したような口調になって、
「しかし、なんとしても、こんどばかりは負けられぬ。……万一|北町奉行所《きた》に出しぬかれ
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