「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]以下〆二十二挺』と、ちゃんと記帳されたのに、正門を入ったときは、それが、わずか九挺になっていた。……ところで、その十三挺の乗物はこの袋の中から出ていないのである。
麻布善福寺《あざぶぜんぷくじ》のヒュースケン襲撃事件があって以来、にわかに町木戸がふやされ、暮六ツを合図に木戸をとざし、それ以後の通行はいちいち記帳されることになっている。
長井の赤土山について安珍坂《あんちんざか》をおりたとすると、青山一丁目|権田原《ごんだわら》の木戸。
お濠にそって紀伊国坂をくだったとして、そこから外桜田《そとさくらだ》へぬけるには、喰違御門か赤坂御門。
溜池のほうへ行くには赤坂見附の木戸。
赤坂|表町《おもてまち》へは弾正坂《だんじょうざか》の辻番所。
どんなことがあっても、いずれかの桝形《ますがた》か木戸で誰何《すいか》され、お改めをうけなければならぬはずなのに、乗物にも徒歩《かち》にも、それがぜんぜん通っていない。くどいようだが、木戸うちからは出ていないのである。
消えうせた十三人の腰元のうち七人は、ひと口に『那智衆《なちしゅう》』といわれる新那智流の小太刀の名手《つかいて》。しばしば諸侯から所望《しょもう》されたほどの名誉のものどもで、毎年十月十五日の紀州侯の誕生日には、おなじく御休息《ごきゅうそく》の染岡《そめおか》の腰元と武芸の試合を御覧にいれることになっているが、江戸の下町からあがった染岡の腰元どもの手にあうはずがない。毎年、大井の組が勝をとって、お褒めにあずかってきた。
その恒例の十五日は明後日にせまっている。局《つぼね》あらそいというのはよくあることだから染岡が大井の寵をねたみ、相手の力をそぐために、じぶんの局へでも引きこんで監禁《おしこ》めてあるのではないかと思い、奥年寄の老女に命じて、ひそかに染岡の局をうかがわせたが、これは無駄骨におわった。東門、巽門《たつみもん》、紀伊国坂門《きのくにざかもん》、鮫橋門《さめがはしもん》と、はじめから、十二のどの門も通っていないのである。
こうなれば、もう神隠しにでもあったか、大地に吸いこまれてでもしまったかと思うよりほかはない。あっけにとられて顔を見あわせるばかりだった。
もっとも、あとになって考えると、この日、ちょっと妙なことがあった。
本迹枢要《ほんじゃ
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